第3回 先住民族アイヌの権利を保障しよう

2020年7月17日(金)18:30〜21:00

zoomミーティングシステムを介して開催しました。参加者25人。


話題提供

山田伸一さん
「アイヌ民族の川でのサケ漁はいつ禁止されたのか」

やまだ・しんいちさん 博物館学芸員、歴史研究者。著書に『近代北海道とアイヌ民族 狩猟規制と土地問題』(2011年、北海道大学出版会)など。


現在の北海道の河川では、サケは禁漁です。そもそも水産資源保護法(1951年)によって、全国的に「内水面においては、サケを捕っちゃいけない」と規定されています。

水産資源保護法 第25条
漁業法第8条第3項に規定する内水面においては、溯河魚類のうちさけを採捕してはならない。

この条文には但し書きがあって、こう書いてあります。

……ただし、漁業の免許を受けた者又は同法第六十五条第一項若しくは第二項及びこの法律の第四条第一項若しくは第二項の規定に基づく農林水産省令若しくは規則の規定により農林水産大臣若しくは都道府県知事の許可を受けた者が、当該免許又は許可に基づいて採捕する場合は、この限りでない。

北海道でそれに対応するのが1964年の北海道内水面漁業調整規則です。サケに関しては、内水面では周年、季節を問わず捕っちゃいけないと規定したうえで、こうあります。

北海道内水面漁業調整規則第 52条
この規則のうち水産動植物の種類若しくは大きさ、水産動植物の採捕の期間若しくは区域又は使用する漁具若しくは漁法についての制限又は禁止に関する規定は、知事の許可を受けた者が行う試験研究、教育実習、増養殖用の種苗(種卵を含む。)の自給若しくは供給又は伝統的な儀式若しくは漁法の伝承及び保存並びにこれらに関する知識の普及啓発(以下この条において「試験研究等」という。)のための水産動植物の採捕については、適用しない。

こうしたものによって許可されたサケを捕る行為は、特別採捕と呼ばれています。これが今の制度上の枠組みです。

ここまでは、この研究会のみなさんには前提のようなものですが、これは1951年ないし1964年にできた現行の枠組みです。ではこうした枠組みができる以前はどうなっていたのか? ちゃんと考えておかなければなりません。

かといって、時間をさかのぼりながら話すとうまくいかないので、きょうは、明治初期を起点にして、徐々に現代(現行法の成立時期まで)に近づいていきたいと思います。

■19世紀後期の行政システム

はじめに、北海道における行政(機関)の移り変わりについて、軽く押さえておきましょう。1869年(明治2年)、開拓使という役所が置かれます。10年あまり続いたあと、1882年に廃止されて、北海道は3つの県に分割統治された時期(3県1局期)がありました。それもわずかしか続かず、1886年(明治19年)に北海道庁という組織になって、第2次世界大戦後の1947(昭和22)年に現在の北海道になりました。

山田伸一

北海道庁の時期以降はイメージがつかめると思いますが、開拓使と3県1局の時期は馴染みが薄いと思うので、簡単にご説明します。

この地図は開拓使の行政区分図です。支庁の数はだんだん整理されていっており、この図は1876(明治9)年以降の区分です。北海道を札幌本庁と函館・根室支庁に分け、東京に開拓使東京出張所がありました。名前は出張所ですが、実質的には東京が本庁の役割を果たしていました。「本庁」と聞くと、それが上位に位置していそうですが、現地の札幌本庁と函館・根室支庁に基本的には上下関係はなく、それぞれのエリアをそれぞれが管轄していました。だから札幌本庁が何か「こうするぞ」と法令を出した場合、それは札幌本庁管轄内だけで有効だったということです。1882(明治15)年の開拓使廃止にともない、この札幌本庁・函館支庁・根室支庁の線引きが、そのまま3つの県に引きつがれます。

■アイヌ民族のサケ漁法

もうひとつ前置きとして、(19世紀ごろの)アイヌ民族の川でのサケ漁についてご説明しておきましょう。きょうは「川でのサケ漁禁止」についてお話するのですが、そもそもどんな漁が行なわれていたのか、さらっと見ておきます。といっても、写真やイラストだけでは分かりづらいので、ぜひお近くの博物館にお越しいただければと思います(笑)。

これは「マレㇰ」と呼ばれる漁具です。長さ2~3mの木の棒の先に、金属製の鉤を装着したもので、鉤先を魚に突き刺すと鉤が反転し、魚が暴れても逃がさない構造の仕掛けです。

山田伸一

こちらは「カギ」です。どちらかというと和人が使っていたのがアイヌにもたらされたものと考えられ、アイヌ語の名前はないようです。やはり長い棒の先に取り付けて、水中のサケを引っ掛ける漁具です。

山田伸一

これは「テㇱ」です。「ㇱ」は日本語とは異なるアイヌ語の音を表すのに使われる文字で、子音で終わる音(後ろに母音のiはない)を示します。日本語話者には母音の有無は区別がつかないことが多いので、「テス」などと書き取られます。サケが上ってくる川の流れをさえぎるように、木の枝やササで柵状のものを作り、そばには人が座れる脚立のような台を立てます。そこで待ち構えながら、上ってきたサケを、突くかすくうかして捕獲します。

山田伸一

これは「ウライ」です。やっぱり魚の行く手を遮るように、川の流れの中に柵を作って、木の枠で作った箱のよう構造にサケを追い込む、一種のヤナです。川を上ってくるサケを捕らえるものです。

山田伸一

テㇱとウライはしばしば混同されて、史料の中でも混乱しているのですが、「入り込んだら出られないヤナの構造を持つものがウライ」と、私は解釈しています。しかし開拓使の文書を読むと、役人の間でもしばしばごっちゃになっているのが分かります。テㇱとウライの違いについては、札幌大学におられる瀬川拓郎さんが『アイヌ・エコシステムの考古学』(北海道出版企画センター、2005年)で詳しく論じていたと記憶しています。

こちらの「ヤㇱヤ」は、小規模な網です。カタカナ表記では「ヤス」「ヤセ」と書かれることもあります。すくい網の一種で、2艘の丸木舟の間に張ってサケを捕る方法です。

山田伸一

■場所請負制度の廃止、その後

さて、アイヌ民族のいろいろな権利は明治以降、何段階かにわたって、奪われるといいますか、否定されてきました。とりわけ集中的だったのは開拓使の時期(1869=明治2年~1882=明治15年)です。土地関係の権利侵害はもう少し後、北海道庁の時期の問題も大きいのですが、特に(サケ漁規制など)生物資源の利用に関しては、開拓使の時期の規制強化が際だっています。

開拓使の時期は、それ以前の近世(江戸時代)から近現代への移行期に当たります。大きな変化のひとつは、江戸時代後半の場所請負制を廃止したことです。近世日本は、蝦夷地の各地に場所請負人(商人)を置き、彼らに漁業経営を独占させていました。松前藩が許認可権を持ち、商人から税金をとる仕組みで、場所請負制と呼ばれます。

新しい明治政府の問題意識は、場所請負人たちが各地の漁業経営を独占しているために、新しい産業振興の妨げになっている、というものでした。また各場所の請負人たちは漁業生産のためにアイヌ民族を安価な労働力として酷使していたので、それを何とかしなければという問題意識もありました。

そこで場所請負制廃止に向かいますが、すぐには進まず、1869年の時点では、単に名称を「漁場持」と変えただけで、それまでの場所請負商人たちがあいかわらず各地の漁業経営を独占する状態が続きました。こんな「漁場持」制度は1876年までに全道で廃止されます。

さきほど場所請負人が漁業経営を独占していた、と話しました。じゃあアイヌたちもサケを捕れなかったかというと、そんなことはありません。商人は和人の出稼ぎ漁民やアイヌを使役して大規模な漁業経営を行なっていましたが、いっぽうで、アイヌ民族が自給用に河川でサケマスを捕ること(飯料取)は基本的には妨げていませんでした。

■業者独占から政府独占へ

それが明治になると変わってきます。漁場持制度が廃止され、特定の商人による独占は解けます。しかし、かといって和人の漁民がわーっと群がってきて自由にどこでもサケを捕っていい、というふうにはなりません。(希望者は)役所に出願して、許可を得る手続きが必要とされました。実際には手続きなしに捕る人もいたわけですが、それはあくまで「制度から逸脱した者=密漁者」とみなされました。

十勝地方では、漁場持制度廃止後、それまで商人の下で働いていた和人とアイヌたちが、地元に新たに合同組合をつくって漁業を営んだケースがあります。漁場持制度から、地元の組合の経営による独占に移行した特殊な事例です。この組合は数年で解散しますが、こうした事例が確認できるのは全道で十勝だけです。

■1876年開拓使乙第9号布達

開拓使の時期、いろいろなサケ漁規制が行なわれます。開拓使は札幌本庁と函館・根室支庁を置いていたわけですが、それぞれ管轄する河川を対象に細かな布達(お達し)が出されています。ここでは全道を対象にした2つの法令をみてみましょう。

山田伸一

1876年(明治9年)8月28日の開拓使乙第9号布達は、「テス網」と夜漁を禁じました。「「テス網」で川を遮ってしまったら上流漁業の妨げになるのはもちろんのこと、魚苗の減耗を招いて大きな害になる」と理由が書いてあります。地域によっては、当時すでに「ウライを禁止する」と書かれた規制も発令されていました。開拓使がテㇱとウライの違いをどこまで理解していたか分かりませんが、全道を対象にしたこの1876年布達には、「テス網」としか書いてありません。ところがこの後、千歳地方でのウライ漁を開拓使が問題視する事件が起こります。「これはウライで、布達が禁じる「テス網」ではない」みたいな反論がやりとりされ、最終的にはウライも禁止、つまり違法化されました。

ただ、開拓使はアイヌを狙い打ちにしてこうした布達を出した、とまでは言えないのではないか、と私は考えています。あくまで漁業規制の一環として網の使用を禁じたものだったでしょう。テㇱを和人が使用していた事例もあったようです。とはいえ、結果的に一番ダメージを受けたのがアイヌであることは間違いありません。

■1878年開拓使乙第30号布達

もうひとつの重要な法令が1878年、明治11年10月20日の「開拓使乙第30号布達」です。「川でサケ・マスを捕る場合、曳網(ひきあみ)以外の漁法はすべて禁止」「曳網であっても夜漁、支流では一切禁漁」と書かれています。支流でのサケマス漁禁止は、たとえば石狩川に当てはめると、千歳川・豊平川などなど多くの川が禁漁対象になります。

山田伸一

この当時の法令は、とくだん「みなさんの同意を得て決めます」という仕組みは何もなくて、ある日突然、どこかで──東京で、あるいは札幌で──決まって、施行されちゃうんです。昨日も今日も、明日も続けていくつもりの漁業活動がいきなり「違法な密漁」にされてしまうわけです。これ以降もアイヌ民族は川でサケを捕り続けますが、それはすべて「密漁」扱いになりました。きょう、この後も私は「密漁」という言葉を使いますが、必ずカギカッコ付きだと思って聞いてください。「密漁にされちゃった」側面を忘れてはならないと思います。

■川サケ漁「密漁化」政策の背景

それにしても、開拓使はなぜこんな規制をしたのでしょうか。1878年12月17日の開拓使札幌本庁第43号布達にキーワードがありました。「サケマスは北海道物産の最も鴻益なるもの」「だから繁殖に注意して、あらかじめ保護しなければいけない」と理由が書いてあります。「魚苗」の生育すべき支川で漁獲したら減ってしまう、だから繁殖地である河川上流の支川(支流)での捕獲を禁じる、というのです。かたや河口部や海岸部では、おおいに捕って売り込んで利益を上げましょうというわけですから、川の上流と下流に、それぞれ違った役割を割り振っていることになります。

当時北海道の物産として一番多く販売されたサケマスの加工品は、塩ザケ・塩マスで、東京などに出荷されていました。また開拓使直営の缶詰工場を石狩や別海に建設し、シカ肉の缶詰とともに、サケマスの缶詰を国内外に売り込みました。この時、開拓使はすでに札幌(今の北大キャンパス南の偕楽園のなか)に孵化場を設けてサケ人工孵化を試みています。当時、開拓使だけではなく政府規模でサケ漁業を活発化させようとしていました。

山田伸一

とはいえ、こんな規制を実施したら、川でサケを捕獲してきたアイヌ民族の側は生活に困るに違いありません。開拓使は、アイヌ民族についてどう考えていたのでしょうか。

■禁止令の影響補償はゼロ

これら布達の制定過程は、細かいところは実はよく分からないのですが、大ざっぱに言えば、出先(札幌本庁、根室・函館各支庁)の発案というより、東京の黒田清隆開拓長官周辺で方向性が決まっていったのではないかと感じています。

全体としていうと、これらの制度化の過程で、「これじゃあアイヌ民族が困るね」「権利の否定につながるね」といったことは考えられていなかったと思います。「彼ら(アイヌ)は自分で何とかするだろう」くらいの感じだったようです。具体的な配慮はほとんどありません。

唯一の例外は、札幌本庁が、黒田清隆長官の指示の下で、千歳と勇払郡のアイヌに対して、シカとサケの収獲減少に備えて、農業指導をしたらいいんじゃないか、という計画を作っています。しかし計画を作り始めたのが、1878年10月の布達を出した後ですから、順番が逆でした。おまけに、この計画は結局「金がかかりすぎるから」と実行されませんでした。要するに何もしていないということです。

ただ、紙に書かれた布達を実現するには、各河川で禁漁を徹底する必要があります。それを実施に移そうとした段になって、現場を知っている開拓使本支庁や3県の役人たちが「これはやめたほうがいいんじゃないか」と上申をした例は、パラパラと見受けられます。

■アイヌ共同漁場

今年3月でしたか、市民団体「アイヌ(=ひと)の権利をめざす会」のホームページに「カムイチェㇷ゚をめぐる近代史年表」というのが出て、ここにおられる平田(剛士)さんが作ったものだったんですけど、「1878年、全道の河川でサケマス漁全面禁止」となっていました。参考文献に私の著書があがっていて、すぐ平田さんに連絡を取りましたが(笑)、これは間違った記述です(現在は訂正済み)。

1878年開拓使乙第30号布達は、まず曳網以外の漁法を禁じ、そのうえで支川でのサケマス捕獲(曳網漁を含む)を禁じています。つまり(支流ではない本流)河川での曳網漁は禁止されていないわけです。もちろん、だれでも捕ってよいというのではなく、開拓使に出願して許可を得た者に限る措置です。曳網は、それなりに大きい仕掛けで、舟で引いて展開した袋状の網をたぐり寄せ、魚を捕る形式です。はじめに見たアイヌ民族の漁法に比べるとかなりスケールの大きな漁法だと思います。

山田伸一

また、アイヌ民族も合法的にサケを捕ることを認められている場合がありました。たとえば十勝アイヌの共有漁場というのがあります。アイヌ共有財産裁判(1998年提訴、2006年原告敗訴確定)でも、焦点のひとつでした。1900年(明治33年)の時点で、十勝川河口に十勝アイヌの共有漁場があり、サケ漁業が行なわれていました(図中の黒塗り箇所)。ついでにいうと、白で示しているのは和人がサケ漁を認められていた地点です。

山田伸一

ただし、このアイヌ民族の共有漁場は、早くから和人に賃貸されている場合が多く、アイヌ民族が自分たちでサケ漁をしていた漁期は、明治初期の段階でもあまり多くはありません。十勝川のこのあたりでも、1925年にはサケ漁の権利が消滅し、合法的なサケ漁が行なわれなくなっています。

このほか、「上川他各郡のアイヌの共有漁場が石狩川下流部にあった」という記録もあり、アイヌ民族がサケ漁をしていたとみられます。ただ、開拓使の時期には喪失──あいまいな表現ですが──してしまう。権利が(和人側に)奪われたんだと思います。

それから私が住んでいる江別市の対雁の例。樺太(サハリン)から集団移住させられた樺太アイヌのために、開拓使が石狩川下流部に複数の漁場を確保した例があります。それが1870~90年代ごろまで続いた後、石狩町漁業組合に権利が譲渡され、1928年にはこの漁業権は消滅したもようです。

また多くはありませんが、アイヌ民族の個人が、和人と同じ手続きを踏んで、許可を受けた上で川でのサケ漁を行なっているケースもあちらこちらの河川でありました。

ちょっと一休みしましょうか。ご質問があればどうぞ。


質問者
「曳網」と「ヤㇱヤ」の違いを教えて下さい。

山田伸一
規模が違ったようです。曳網は一種の地引き網で、最終的には獲物を岸辺に引っ張り上げる方法です。ヤㇱヤは2艘の丸木舟の間に張った網で魚をすくい取るものです。曳網につていは、この北水協会編『北海道漁業志稿』(国書刊行会、1977年)に詳しく解説されています。

質問者
ようするに大規模な曳網は禁止せず、小規模なヤㇱヤを禁じたと言うことですね。

山田伸一
そうです。この話をすると必ず聞かれることなのですが、いくら下流部といえ、大規模な曳網のほうがサケをたくさん捕ってしまうのは明らかです。資源保護のためと言いながら、上流(支流)の小規模な漁だけ規制したのはなぜなのか。そこは考えなきゃいけないポイントだと思います。

質問者
この図解の曳網(『北海道漁業志稿』)は、地引き網ですよね。ふつう曳網というと船で引くものを指しますが……。

山田伸一
『北海道漁業志稿』によりますと、川によって曳網の形態は異なるようです。典型的なものではないかもしれませんが、北海道の河川ではこれを曳網と称しているようです。

質問者
この曳網漁は和人によるものですね?

山田伸一
和人が多いのですが、十勝アイヌも使っていましたし、先ほどアイヌが「和人と同じ手続きを踏んで、許可を受けて川でのサケ漁を行なっているケース」を紹介しましたが、彼らも(合法的な)曳網を使っていました。

質問者
共有財産についての資料は山田さんの本にありますか?

山田伸一
十勝アイヌの共同漁業については、井上勝生さんの『明治日本の植民地支配』(岩波書店、2013年)や、私の『近代北海道とアイヌ民族』(北海道大学出版会、2011年)の「十勝アイヌと共有財産」という章に詳述されています。もう少し古い明治初期の経緯については、私が書いた「開拓使期の十勝アイヌ共有財産」(北海道開拓記念館研究紀要第41号、2013年)をご覧いただければと思います。

十勝アイヌの共同漁業については、共有財産裁判の記録(「アイヌ民族共有財産裁判の記録」編集委員会編『百年のチャランケ』緑風出版、2009年)にも出てきます。上川アイヌの石狩川の共同漁場については、ちょっと探したんですけど意外に見当たりません。でも旭川のアイヌ史研究者たちの間でよく知られていることで、『新旭川市史』あたりに書いてあるかもしれません。

また、対雁に連れてこられた樺太アイヌの共同漁場については、たとえば樺太アイヌ史研究会編『対雁の碑』(北海道出版企画センター、1992年)に書かれているほか、いくつも文献があると思います。


■規制強化の流れ

再開します。ご説明しましたように、1876年と1878年の開拓使布達によって全道一円で曳網以外の漁法は禁止、また支流でのサケ漁は禁止されます。しかし、曳網による本流の(許可制)サケ漁はまだ可能でした。

その後は地域ごとに個別の対応になっていきます。札幌県は1883年、十勝川中流部のチャシコチャより上流(本流)を全部禁漁にする、という布達を出します。河口部では許可を得てのサケ漁が可能とされていましたが、以降は、わりと下流に近いこの地点までしか許されなくなります。と同時に、上流部には繁殖場を設ける、とこの布達は言っています。ようするに「密漁」を厳しく取り締まりますよ、という宣言でしょう。

山田伸一

あるいは、開拓使から3県の時期にかけて、本流まで禁漁にした例として、道南の遊楽部川があります。本流に割と大きな支流二本が流れ込んでいる川ですが(図を参照)、ここでは1880年、開拓使函館支庁が種川法を導入しています。上流に行き止まりの柵を設け、サケにそれより下流で産卵するようしむけます。近くには、「密漁」者を監視するための交番も建てます。産卵期が終わるころ、今度は下流側に柵を立て、産卵を終えた親魚をそこで捕獲しました。サケの自然産卵を保護しつつ、産卵後のサケを利用するシステムですね。この間、部外者は(本流での曳網によっても)サケを捕ることは許されていません。

山田伸一

種川法は、江戸期から本州のサケ河川で行なわれていたもので、遊楽部川の種川法は、新潟県村上市の三面川でのやり方を見本にして行なわれました。実際には開拓使の直営ではなく、今の愛知県から八雲地方に移住・入植した徳川家の藩士たちが担い手でした。種川法は、道内では遊楽部川のほか、一時期の千歳川などで行なわれましたが、事例は多くはありません。札幌の豊平川や琴似川(石狩川支流)でも1882年から種川法を導入したとされていますが、これらはすでに全面禁漁河川でしたし、単に「密漁」監視を強化しただけで、川に柵を設けたりはしていません。同じく「種川法」と呼ばれているけれど、中身には違いがあるということです。

■川サケ漁規制の変遷

平取の萱野茂さんが、自伝『アイヌの碑』(朝日新聞社、1980年)に、お父さんのことを書いておられます。萱野さんのお父さんは、ふだんから季節になると近くの沙流川でサケを捕ってきて家族と食べていたのですが、ある日、家にやってきた警官に、家族の目の前で、「密漁者」として連行されてしまう。この時、お父さんが涙を流した場面を、萱野さんは何度も語っておられました。子どもだった萱野さんの脳裡に深く刻まれた出来事だったんだと思います。

山田伸一

この時、昭和8年(1933年)ごろのことですが、萱野さんのお父さんは、明治時代の1878年開拓使布達ではなく、この布達を引き継いだ新しい法令に違反している、として警官に連行されたのです。1878年開拓使布達が、その後どんなふうに新しい法令に引き継がれてきたのかをみてみます。

1888年(明治21年)3月19日に、北海道庁令として北海道水産物取締規則が出ます。「サケマスの河川捕獲は本流のみ、曳網による漁業のみ認める。夜漁は禁止」(15条)、「テス網禁止」(16条)と、開拓使布達を引き継いでいます。17条には「自給のためのサケ漁は出願しなくてよい」とあるので、自給用なら自由に捕れると思いきや、続けて「禁止漁具を使ったり、自然繁殖やほかの漁業を妨害したりしてはいけない」とあるのをみると、自給用であれ、サケ捕獲をほぼ禁じているのに等しい内容だと思います。この取締規則は後に改正され、罰則規定が設けられます。

ついで1894(明治27)年12月25日、「鮭鱒ノ泝上スル河川湖沼ノ漁業並鮭鱒ノ沖網漁業制限」(北海道庁令第71号)が出ます。サケマスが遡上する全道の河川や湖を1等~3等に区分しまして、等級ごとに範囲と期間を決めて、それぞれ河口部と河口周辺の海でのサケマス漁を禁じる措置でした。また、これらの河川湖沼では新規のサケマス漁業は当面許可しない、とも書かれています。河川でのサケマス漁を減らしていきたい、という意図がうかがえると思います。

山田伸一 山田伸一 山田伸一

■自給用サケ漁の完全禁止

さらに数年たった1897(明治30)年、「北海道鮭鱒保護規則」という北海道庁令が出ます。ここでは、条件を満たす者に限りサケマス漁許可を出願できると定めて、(行政が)指定した場所で漁をする者とか、自然繁殖を保護する者とか、要件を挙げて出願者を絞り込もうとしています。川や湖を3つの等級に分けて、全面禁漁とまではいかないまでも、範囲と時期を決めて禁漁にしたうえ、川での地引き網を規制したり、夜漁を禁じたり、といった措置をとっています。

山田伸一 山田伸一

この規則は後段で、人工孵化とか天然産卵場造成とかの施設を作ることは認めていて、そういう人たちが人工孵化に用いる親魚や産卵後の魚を捕ることは、手続きを踏めばできますよ、と書いてあります。

そのいっぽう、この規則の第10条は「鮭鱒ハ自用トシテ捕獲シ又ハ遊漁スルコトヲ得ズ」、つまりサケマスを自給用やレジャーのために捕ることを禁じる、と明言しています。自給用のサケ漁が禁止されたのはいつなんですか? という疑問に対して、これは非常に分かりやすい規則です。大規模な網を使う産業用の川サケ漁は、この時点ではまだ、許可数を限りつつも行なわれているんですけれど、自給のサケ漁はここで禁じられました。

この第10条は1902(明治35)年に改正され、「鮭鱒ハ許可ヲ受クルニ非ラサレハ捕獲スルコトヲ得ズ」、サケマスは許可を得なければ捕獲できませんよ、と変更されます。なんだ許可を受けたら合法なのか、とも読めますが、じゃあ出願して許可を得たアイヌが大勢いるかと言えば、おそらくそうではなかったと思います。

■漁業法・水産資源保護法への組み込み

この時期、北海道庁の規則は、何度も何度もこのように更新を重ねています。続く1901(明治34)年に漁業法(旧法)が公布されます。すると1903(明治37)年に改めて北海道漁業取締規則が作られ、サケマスに特化して書かれていた従来の保護規則は、この中に取り込まれました。
漁業法は1910(明治43)年に大幅改正されます。

1915(大正4)年と1928(昭和3)年に北海道漁業取締規則が出し直され、そのつど河川湖沼の等級も再指定されています。萱野茂さんのお父さんが「密漁だ」として連行された時、警察官が根拠にしたのは、この時期の規則だと思われます。

1951(昭和26)年の水産資源保護法制定に続いて、直後の1952(昭和27)年に北海道漁業調整規則が作られ、ようやく今日のゴール、1964(昭和39)年の北海道漁業調整規則にたどり着きました。

ここまでたどってきた制度の内容の変遷をみていきたいと思って、整理を試みているのですが、正直なところ、よく分かりません。各時代の各河川で、それぞれどの規則のどの条項によってサケマス漁が禁じられているのか、まだ明確に整理し切れていません。だれか手伝ってよ、という感じです(笑)

山田伸一 山田伸一

だんだん複雑化してきているうえ、漁業法施行以後は、その各条項とからめて条文が書かれているので、よけいに分かりにくくなります。とりわけ1928年北海道漁業調整規則では、河川のサケマス漁(規制)について具体的に書かれていないので、いまひとつ理解できないでいる状態です。

1952年の北海道漁業調整規則には、なぜだか水産資源保護法(1951年)に基づいて、という文言がありません。水産資源保護法ができた時点で、すでに河川でのサケ漁は禁止していますが、この規則で改めて「河川湖沼ではさけおよびますを採捕してはならない」と書いていますので、現行規則と似ていますけれどちょっと違うものです。

■多様な人々を包み込む新システムを!

この研究会でみなさんは、アイヌ民族の権利回復を考えようとしているんだと思います。そこに焦点を絞ると、明治11年、1878年アイヌ民族が自給用のサケを捕ることを和人側が一方的に禁止したあたりに、一番根本的な問題があったのではないかと思います。現代においてアイヌの側から「サケを捕るのになぜ知事の許可を得なければいけないのだ」といった問いが出てくるのは当然だというのは、ここの問題が大きいのかなと思います。

ただ、きょうは全体像をお示ししましたが、それぞれの河川で、サケ漁のたどった歴史は相当な違いがあります。これから権利回復を目指したり、これからどうするかを議論するとき、「歴史は河川ごとに違っている」というのを押さえておくことは重要な課題だと思います。

もう一つの視点は、「密漁者」というと、ついアイヌの問題ととらえがちですが、明治政府が取り締まろうとした「密漁」者はかなりの程度和人だったということです。そのいっぽうで「合法」的に許可を得てサケを捕るアイヌもいました。

そのような多様な人々をじょうずに包み込んで、サケの利用と資源管理(システム)をどうつくっていくのか。これまで、それがうまくできなかった。そして今後も難題だと思います。