人生が見張られている!?
「やぶれっ!住基ネット市民行動」
連続講座「共通番号制・国民ID」を問う(渋谷区立神宮前区民会館)での講演予稿
日時:2011年10月5日(水) 18時30分〜
会場:渋谷区立神宮前区民会館 4階 会議室1号
平田剛士(フリーランス記者)
本日はお招きいただき、どうもありがとうございます。フリーライターの平田剛士です。都内でスピーチする機会などめったにありませんので、みなさんの前にこうして立たせていただいて、たいへん光栄です。まずは主催者のかたがたに深くお礼申し上げます。
ふだん北海道に住んでいて、今回も飛行機に2時間ほど乗って、飛んでまいりました。みなさまにとって、北海道のイメージは、どんなでしょう? すすきの? ラーメン? ジンギスカン? 大自然? リゾート地?
私のすんでいる町は、人口4万数千人のこぢんまりとした町で、まわりには自然いっぱい、見晴らしのいい丘の上にリゾート施設も建ってます。先日は市街地のそばにヒグマなんかも出没して。かと思うと、つい月曜の朝はうっすら初雪が降りました。さすがにこんなに早く降るのは六十何年ぶり、観測史上二番目だったとか。――というふうに説明すると、スゴイ隔絶感がありますね。ぜひ遊びにいらしてください。
大都会とは正反対の、そんな小さな地方都市に住んでいると、最先端のITによる個人情報管理なんかとは無縁かというと、実はそうでもありません。
わたしは自宅のパソコンをインターネットにつないで、モノカキの仕事をしています。日本列島は津々浦々まで光ファイバーの通信網が張り巡らされていて、地方にいても非常に快適なネットワーク環境の恩恵に与っています。
ところがこれが言い方を変えると、まさに監視環境そのものなんですね。何しろざっと1000キロも遠く離れた東京の編集部から、リアルタイムで指令が飛んできます。電話、ファクス、電子メールに、ケータイ電話。あらゆる「連絡」から逃れる術はありません。こっちも、そんな連絡を一本逃したら仕事を失うかも知れない、とフリーライターならではの危機感があるので、思い切ってケータイの電源を落とすこともできません。ともかくこういう生活では、リゾート感はあまり感じられないんです。
自宅の書斎を仕事場にしているわたしにとって、いまや電話やファクスよりも、インターネットを使って相手と連絡をとりあうことが非常に多くなっています。最も多用しているのは電子メールですが、電子メールのしくみを、ご存じでしょうか? 自分のパソコンにタイプライター式のキーボードで打ち込んだ手紙の文章が、どうやって目当ての相手のパソコンに送られるのか?
パソコンをお使いの方は、たいていみんな最初に苦労されたと思うのですが、プロバイダー契約、というのを結ばれたと思います。provideという英語には「用意する」「準備する」「供給する」といった意味がありますが、インターネットプロバイダーは「接続業者」「回線業者」などと訳されています。何と何を接続するかというと、自分のパソコンを、インターネットという通信網に接続するわけです。
コードをソケットに差し込むだけなのに、なんで業者が出てきて、お金まで払わねばならんの? と最初だれしも不審に思うわけですけれど、そうして集めたお金で、インターネット回線を整備したり保守管理したりしておるのだと、まあ、そのように説明されているわけです。
利用料金が発生するということは、業者の側はそれをちゃんと徴収しなくてはなりません。いまは常時接続といって、インターネットに24時間つなぎっぱなしにして定額いくら、というコースが一般的(一番安い)ですが、黎明期――といっても1990年代です――は利用時間ごとに料金コースが設定されてました。1日8時間以内でいくら、それ以上使うと1時間あたりいくら加算、とか。すると個々の利用者によって料金が異なりますから、それを間違わないように徴収しなくてはならない。電話料金や電気料金と同じです。
そのために、契約と同時に契約者にはID、つまり識別番号が割り当てられます。わたし自身を例にとると、識別番号はPXN04427です。ユーザー名とか、アカウントとか呼ばれることもあります。
インターネットにアクセス――ログイン――する時は必ず、このIDと、もうひとつ別のパスワードを接続業者に伝達して、初めて接続が認められます。業者の側にすれば、いま接続しようとしているのはどこのだれか、ということを、そのIDによって識別します。これを「個人認証」と言いますね。何時何分何秒にアクセスを開始した、あるいはログアウトした、というふうに正確に記録を取り――なにしろITですから正確な記録を取るのはお手の物です――毎月の決算日に今月は何時間使ったからいくら、と料金を計算して、銀行引き落としやクレジット決済で徴収が完了します。
現在では、こうしただんどりは、初日にIDやパスワードなどを設定したら、以降はぜんぶパソコンが自動的にやってくれます。だからつい忘れてしまいがちなんですが、こうやって記録は必ず取られています。
さて電子メールのしくみの話でした。先ほどの接続業者、プロバイダーと契約すると、同時に「メールアカウント」というものをもらいます。いわゆるメールアドレスで、「△□@△.com」とか「「△□@△.co.jp」とか「△□@△.go.jp」とか。ふたたび私の場合だと、「PXN04427 @ nifty.com」というのが私のメールアカウントです。
この文字列には、意味があります。前半は、接続業者がくれたIDでした。これはランダムな英数字の羅列です。次の「@」はアットマークと読みまして、その後の「nifty.com」がドメイン名と呼ばれるもの。「ICANN(The Internet Corporation for Assigned Names and Numbers、アイキャン)」というアメリカ商務省関連の組織が管理していて、世界中でドメイン名が他と重複することのないよう、割り当て役を果たしています。
だんだんフクザツになってきましたが、要するに接続会社はそれぞれ世界にただひとつのドメイン名を持っていて、自分のお客さんたちには、これまた重複しないIDを割り当てているわけです。そんなIDとドメイン名を組み合わせた文字列――メールアドレス――は、つまり世界でただひとつ、その人にだけ固有の文字列ということになります。
だからこそこれは「アドレス=住所」の役目を果たすんです。ネットに接続している、15億人とも20億人とも言われる人口(世界総人口は約70億)のなかから、この文字列があれば、目当てのただ一人を特定することができるわけです。
さきほど、接続業者と契約するとメールアカウントをもらえると言いました。するとこの人は、その業者が管理しているメールサーバー――容量の大きな記憶ディスクです――にログインすることができるようになります。そこには自分用の仮想のメールボックス(郵便受け)が新設されていて、自分のメールアドレスに宛てて届いた電子メールを、自分のパソコンで読めるようになります。また逆に、インターネット上にある相手のメールボックスに電子メールを届けることもできるようになります。
これが電子メールのしくみです。
延々とご説明してきたのは、きょうのお話の、いきなりこれが核心なのですが、われわれ個人はもうすでに、こんなふうにID番号をふられて、それによって管理されてしまっている、ということをお伝えしたかったからです。
長く住基ネットに反対する運動を続けてこれらたみなさまに、こんなことを言ってしまうと身も蓋もないわけですけれど、これは現実です。
電子メールだけではありません。たとえばケータイ電話。みなさん、お使いではありませんか? 固定電話やファクスが、会社でなら社員みんなの供用、ご家庭では家族みんなの供用だったのに対して、ケータイは一人一人が身につける電話です。つまりケータイ番号は個人を特定するIDそのもの、といっていいでしょう。
そのケータイ電話がどうやってつながるか、ご存じですか。これは一種の無線通信機です。でも、トランシーバーやアマチュア無線の送受信機とは方式が少し違う。あちらはAさんの送受信機と、Bさんの送受信機が、直接的に電波信号をやりとりします。それに対して、ケータイで通話する際には、必ず間に通信会社が挟まって、信号を仲介します。だからこそ、海外にも電話がかけられる。
あるいは逆に、たとえばここで、目の前のあなたのケータイに電話をかけたとしても、ケータイ同士が電波を直接やりとりしているのではありません。いったん通信会社を通してから、通信が始まります。
しくみはこうです。
地方に行くと、線路や道路脇に鉄塔が建っていて、てっぺんにキリタンポみたいな棒状のものが何本も立っているのをご覧になったことがおありだと思います。あれがケータイ電話の通信を仲介するアンテナ塔。「携帯電話基地局」といいます。過疎地ほど巨大なアンテナが用意されてます。遠くにいる人のケータイの電波も拾わないといけないから、強力なのが必要なのです。
人口密度の高い都会だと、ビルの屋上や電柱に取り付けるタイプが主流です。パワーは弱い代わりにあちこちにたくさんあって、通話できないエリアが生じないように配置されています。
基地局は、小規模なもので半径数十メートル、強力なタイプだと半径数キロメートルの範囲内にあるケータイと無線通信ができます。基地局ごとに決まるこの通信可能範囲は「セル」と呼ばれています。一つのセル内で同時に中継できるケータイ台数には限界があるので、一般に人口密集地のセルは狭く、また過疎地のセルは広くとられています。
さて、通話の中継とは別に、各基地局は常時、自局固有の識別信号を発し続けているんですね。セル内にいる個々のケータイのほうも、通話するしないにかかわらず、電源さえ投入されていれば自動的にその識別信号を読み取って、いま自分がどの基地局のセルにいるかを常に自覚≠オています。だれかに電話をかける時、一番近くにある(したがって最も電波状況が安定している)基地局に電波を中継させるためで、この機能は「セルサーチ(セルさがし)」と呼ばれています。
携帯電話会社は、隣り合ういくつかのセルをひとまとめにして、「位置登録エリア」と呼ぶグループを作っています。ケータイは、セルサーチで自分が新しいエリアに移ったと判断すると、そのことを新しいエリア内の基地局に自動的に通知します。通知はそのまま「ホーム・ロケーション・レジスター」と呼ばれる携帯電話会社のサーバーコンピューターへ。そこではケータイ契約者ひとりひとりのファイルが管理されていて、新しい通知が入るたび、そのケータイが今どこのエリアにあるかの位置情報をリアルタイムで更新する仕組みになっています。「位置登録」機能と呼ばれます。
またまたたいそうな説明になってしまいましたが、これが、ケータイがどこでもつながるしくみです。トランシーバーと大違いでしょう? 一番違うのは、やっぱり一人ずつ(一台ずつ)コンピューターで正確に追跡管理されているということ。
特定のケータイについて、通信会社サイドから位置登録情報を確認すれば、持ち主が今どこのエリア内にいるかが分かります。履歴を追跡すれば、持ち主がどのエリアからどのエリアに向かって移動しているのかも分かります。たいていの人は、道路や鉄道線路のルート上を動きますから、ケータイ位置登録の履歴と付近の道路・鉄道マップを重ねれば、その人の位置や移動経路をかなり正確に絞り込むことができてしまいます。
念のために申し上げておくと、こういうことができるからといって、携帯電話会社が契約者個々人の移動経路を調べているわけではありません。電話会社もそこまでヒマではないでしょう。
「どこからでも、どこにでも電話できる」という利便性を実現するために、このような方式が編み出され、急激にインフラ整備が進んだ、ということです。
ただ、たとえば警察の捜査活動には、これは利用価値があります。容疑者など、捜索対象者の足取りをこれでかなり正確に追跡できる可能性があるからです。
ケータイ会社が保有する利用者の位置登録情報については、2000年に当時の郵政省の「電気通信分野における個人情報保護法制の在り方に関する研究会」(座長=堀部政男・一橋大学名誉教授)が、こんな見解を出しています。
「位置登録情報が「通信の秘密」に該当しないとしても、ある人がどこに所在するかという情報はプライバシーの中でも特に保護の必要性が高い事項であるから、「通信の秘密」に準じて強く保護することが適当であると考えられる。」
ところが、みなさんもご想像のように、警察は携帯電話会社に対して、どんどん照会をかけています。
『週刊金曜日』誌の企画で、携帯電話各社にアンケートをとったことがあるんです(2010年4月9日号「特集 あなたはいつでも見られている」)。「警察や裁判所などからの照会に応じたことがあるか」「それはいつで、どんなデータを提供したか、またこれまで何人分の情報を提供したか」と質問したんですね。「公にすることによって法令の定める事務遂行の支障になるおそれがある」といった理由で、大半は具体的な回答をしてくれませんでした。
そんな中、ソフトバンクモバイルは、「例えば、警察であれば、捜査上必要となる携帯電話に紐づく氏名や住所などの情報」を提供していると教えてくれました。
位置情報については、警察はもっと安易に引き出しているのではないか、と思われます。というか、誰かを捜すときはまずケータイの位置情報を辿ればいい、というふうに、もう世間が公認してしまっているフシがある。
また北海道の話で恐縮ですが、あちらで今年の5月、あわや大惨事という列車事故が起きました。夜行の特急列車がトンネルの中で火災を起こして停止し、乗客全員、命からがら真っ黒になってトンネルの穴から這いだしてきたんです。数日後に引っ張り出された列車は丸焦げで、当然のようにマスメディアはJR北海道のバッシングに走りました。ほかにも同じ信号機が何度も不具合起こしたり、運転士が居眠りしたり、確かに安全管理がなってなかったんです。
ところがある日、先月12日ですが、JR北海道の64歳の社長が行方不明なりました。自宅に遺書めいた書き置きがあり、結局1週間後に小樽の海岸で遺体で発見されたのですが、この間の報道記事を読むと、「携帯電話は見つかっていない」やら「携帯電話の電源は切られている」やら、ケータイ電波を追跡せよと言わんばかりの論調でした。
でも、さっきの郵政省研究会の報告では、「携帯電話会社が保有することになる位置情報は、「通信の秘密」に準じて強く保護すべき」と言っていました。これ、メディア自身が捜査機関に個人のプライバシー侵害を鼓舞していることにならないでしょうか。
当の警察庁に「こうした照会は憲法に抵触するのでは?」と質すと、刑事企画課から総務課広報室経由で、「個人情報保護法第23条は、法令に基づく場合は本人の同意を得ずに個人データを第三者に提供できる旨定めている」と返事が来ました。研究会報告書とは真逆に、位置情報は「通信の秘密」には当たらない、というのが警察の解釈なんです。そして、そんな警察の「任意捜査」に、ケータイ会社は唯々諾々と協力しています。警察の特権はそれほど大きい。
各社合わせて契約台数1億2244万9400台(2011年8月末現在、電気通信事業者協会調べ。PHSを含む)というケータイの番号を、警察はあたかも国民一人一人に割り振った背番号みたいに扱っているわけです。
まだまだあります。クレジット番号、ネット通販のID、各種「お客様番号」。ETC。SUICA。IC式の社員証……。
みんな、固有の識別番号を利用して、個人の行動――買い物、移動、出勤・退社など――をコンピューターに克明に記録し、決済をおこなうシステムです。
いま新しい「社会保障・税一体改革」によって国民共通番号=マイナンバーが振られようとしているわけですが、番号による消費者管理は、すでに全盛期に突入してしまっています。
もちろん、それを国家が管理するか、民間企業が管理するかの違いは大きい。でも、こちらの「管理されている」感にあまり変わりありません。amazonから「以前○○をチェックされたお客様におすすめの商品があります」とメッセージが届くたび、「あ、機械に個人識別されて監視を受け、嗜好分析までされている」と、きっとだれもが感じてらっしゃるんじゃありませんか。
それがイヤならやめたら? とうぜん、そういう考えになります。メールアカウントなどの商用コードと、住民票コードやマイナンバーなんかとの最大の違いは、利用者に選択権があるかないか、という点です。国民は必ずメールアドレスを持て、と法律に書いてあるわけではない。
この中に、そういうデジタルの個人コードのたぐいは一個も持っていない、とおっしゃる方はおられますか?
札幌で住基ネット訴訟をずっと取材してきたんですが、原告の方たちも弁護団の人たちも支援する会のみなさんも、たいていケータイをお持ちでした。弁護士たちに公判資料の写しを送ってもらうときなんかも、たいていインターネット経由でした。
持つ持たないの選択権はこちらの手にあるわけです。管理されるのが嫌なら、持たなければいいんです。でも、できない。
なぜって、やっぱり安くて早くて楽ちんだから、です。
「楽ちん」の魔力を過小評価してはいけません。
北海道のヒグマは、畑のメロンやキャンプ場の生ゴミに執着します。ヒトに見つかれば即射殺されると分かっていても、「楽ちん」に抗しきれません。人間にも似たところがありますね。
IT(情報技術)をフル活用した個人(顧客・乗客・従業員・生徒……)の識別管理は、管理される側に「安い・早い・楽ちん」なサービスを提供したんです。だからこれほど急速に普及しました。そうしたサービスを怠ったシステム――たとえばタスポや住基カード――は、もろくも失敗しています。
法律なんかで強制しなくても、損失をじゅんぶん上回る報酬を約束したら、みんなそっちになびくんです。
その陰で、いかにすさまじい差別と抑圧と利権拡大が進んでいるか、私は昨年『人生が見張られている! ルポ・「孤独権」侵害の時代』(現代書館)という本を書いて知らせようとしました。でも当の自分がまだ「魔力」を打ち破れずにいるテイタラクです。
この相手は手強いです。
さらにもうひとつ、この相手はやっかいだな、と思うことがあります。ひと口に監視社会、管理社会と言いますが、人ってやつは、いとも簡単に管理する側に立ってしまうものだ、ということです。
またまた北海道の例、しかも自分のことなんですけど、こんなことがありました。
昨年の春、道南を流れる尻別川という川で、幻の魚と呼ばれるイトウが、自然産卵に遡上してきているのが、およそ20年ぶりに再発見されたんです。国際自然保護連合のレッドリストでCR(絶滅寸前の種)にランクされている貴重な魚で、わたしはもう20年近く、取材がてら地元の保護グループのお手伝いをしてきました。
イトウは体長1m20センチにもなる巨大な魚で、しかも繁殖期には金魚みたいな真っ赤な色になって、浅い小川を遡ってくるのです。そんな巨大な魚が、雄同士浅瀬でバシャバシャ、バトルを繰りひろげ、必死に産卵行動をするのです。それを今回、私は初めて目撃して、泣きそうになりました。と同時に、心配になりました。だれかが勝手に捕ってしまうんじゃないかと。「幻の魚」の希少価値は高いんです。
詳細は省きますが、日本の法律ではいま、この魚を上手に保護できていません。勝手な捕獲を規制できないんです。そこで、グループであれこれ議論を重ねました。なるべく秘密にしたほうがいい、とか、いやどうせ情報は漏れるから積極的に公開してみんなで見守ろう、とか。結局、メディアや地元の役場などに大々的に事実情報を伝えて、代わりにボランティアが24時間体制でパトロールすることにしました。わたしも泊まり込んで、アヤシイ人が来ないか、「見張り」を経験しました。
前置きが長くなりましたが、この時のキーワードが「相互監視」だったんです。
絶滅危惧種の保護、というのは、いわばスローガン、大義名分です。それを掲げてメディアや行政機関や地元の人たちに訴えかけ、いたずらする人が来ないように目を光らせる。もしそういう人がいたら、地域社会の総意として、やめてもらう――。
これ、かなり危ういです。絶滅種の保護、というのを、たとえばジハード(聖戦)と置き換えたらどうでしょう? ジハードに協力的でない人は社会の裏切り者、非国民扱い、というふうになったら、これは恐い。まさに、ネガティブな意味での監視社会そのものです。
でも非常に魅力的なんですね、管理する/監視する側に立つと。
この相互監視の考え方、歴史的に見て、民主主義とスゴク深い関連があります。
「パノプティコン」というのをご存じでしょうか。
管理社会・監視社会を論じる時、ジョージ・オーウェル『一九八四年』(1948年発表)や、フィリップ・K・ディック『少数報告』(1956年発表。同作に基づいたスティーヴン・スピルバーグ監督の『マイノリティ・リポート』=2002年=は秀逸)などと一緒に、しばしば引用されるシンボルのひとつです。
「一望監視装置」「全展望監視システム」などと訳されるパノプティコンは、イギリスの思想家ジェレミー・ベンサム(1748〜1832年)が、刑務所・病院・寄宿舎などのために発想した建築様式です。
この人は「最大多数個人の最大幸福」という言葉を残したのがとても有名ですね。教科書には「功利主義者」という肩書きで載っています。功利主義というのは、「快楽や幸福をもたらす行為が善である」という考え方のこと。また「最大多数個人の最大幸福」というのは、個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである、という意味だと、教科書には解説されています。政府はそういう社会を実現するような政策をとるべき、というわけです。
そのベンサムが考案したパノプティコンとは、こんな建物です。
円環を重ねた形の高層ビルと、その中心に同じ高さの塔が建ちます。塔には大きな窓がいくつも作られ、円環ビルの内面に向かって開かれています。いっぽう、円環ビルの各階には放射状に独房が並んで、それぞれの独房は円環の外と内に窓を持つ。独房にいる受刑者・患者・労働者・生徒などの姿が逆光効果で浮かび上がるのを、塔の中の監視者はいつでも確認できます。反対に、独房からは塔の暗い窓の奥をうかがうことはできない――そんなデザインです。
これは完全に心理詐術です。
パノプティコンでは、中央の塔に監視者はたった一人、あるいは無人でも、効果は薄れません。独房に隔離されたら最後、囚人には自分がいつ監視されているかが分からず、けっきょく常時見張られているのと同じ心理状態に置かれるからです。
さて、重要だと思うのは、このパノプティコンが考案された時代背景です。1789年7月に始まるフランス革命のおり、ベンサムのこのパノプティコンが革命派側、つまり市民たちに大歓迎されたんです。
フランス革命のスローガンは「自由・平等・友愛」です。フランス革命は、その後の世界に市民社会や民主主義の土台を築きました。日本を含め、現在の民主国家がその影響や恩恵を受けていることは間違いありません。
そんなフランス革命の革命家たちが、監視社会の実現に夢を見ていたというのは、何だか違和感ないでしょうか?
でも新しい国のシステムをつくったり、国民をリードしていくような立場になったら、やはり社会秩序の安定や治安を具体的にどう果たすか、というのは切実な問題です。
ベンサム自身はパノプティコンの本を出したとき、「一人一人の友人が監視者になる」と書いています。これは単に監獄の建物の設計図であるでだけなく、相互監視の原理を説明するためのモデルでした。ベンサムのこの発想を20世紀に再発見したフランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926〜84年)は、こう解説しています。ちょっと長くなりますが……
〈ベンサムはルソーの相補者だと私はいいたいですね。実際、多くの革命家たちを鼓舞したルソーの夢とはいかなるものでしょうか。そのどの部分をとっても見てとれ、かつ読みとれるような透明な社会の夢です。暗い地帯はもはや存在しなくなること、王権の諸特権によって、あるいはしかじかの団体の持つ特典によって、あるいはまた無秩序によって配備された地帯が、もはや存在しなくなることなのです。〉〈ベンサムはこれによって、監獄、学校、あるいは病院の問題といった一つの明確な問題を解決するための建築形態を考えただけだ、というわけではないのです。彼は真の発明だと宣言し、これは「コロンブスの卵」だといっています。事実、医師、刑罰関係者、実業家、教育者が求めていたものを、ベンサムは彼らに提示しているのです。彼はまさに監視の諸問題を解決するための権力の技法を見出したのです。〉〈武器も、肉体的暴力も、物質的な拘束も必要ではありません。一つの視線があればいいのです。監視する視線、それが自分の上にのしかかっていると感じて、各人がとりこんで内面化してしまい自分自身を観察するようにまでなってしまう視線が。そこで各人はその監視を自分の上に、わが意に反して行なうことになるでしょう。すばらしい方式です。継続的で結局のところごくわずかのコストですむ権力!〉(フーコー、J−P・バルーおよびM・ペロとの対話「権力の眼」1977年=小林康夫ほか編『フーコー・コレクション4 権力・監禁』ちくま学芸文庫収録)
つまり、パノプティコンが象徴するような相互監視法は、他ならないわれわれ市民社会が、自分で編み出した方法、理想のユートピア像だといえます。もしそれが息苦しくても、この社会では不満を言い出すことすら憚られます。それがこのシステムの見事に悪魔的なところです。
このパノプティコンの方法論は現在、IT(情報技術)によって飛躍的に拡張しています。街頭の監視カメラ群は、文字通り監視の目を増やし、かつ強化しました。
最初にご紹介したインターネットへの接続アカウントや、ケータイ電話の電波といったものも、ようするに四六時中、管理会社のコンピューターに記録を残し続けているわけですから、これまた追跡可能です。
Suicaで電車に乗ったり、ETCで高速道路に乗り入れたりする時も同じ。職場でICカードをかざして端末を起動したら、その時刻や操作内容まで厳密に記録されます。
これらの記録が、実際に管理者のだれかによって追跡されているかどうかは、あまり問題じゃありません。でも、される可能性はあるし、されても分からない。だから私みたいに気の弱い人間は、ヘンなことはよしておこうという気分になる。パノプティコンの独房にいるのと同じ心理状態です。
今度の税・社会保障一体改革の共通番号、マイナンバーにしても、決済の透明化を目指すものです。それによって脱税などの不正を防いで平等な徴税を実現する、というスローガンが掲げられていますね。まさにパノプティコンそのものじゃありませんか。
もちろんパノプティコンは、多くのSF作家たちがそのグロテスクさを描き出してきたように、幻想の世界のユートピアです。さっきのフーコーは〈これは全面的かつ循環的な不信の装置〉と呼んでいます。
でもいったん、ちょっとでも管理する側寄りに立つと、これで行けそうな気がしてしまう。リーズナブルに見えてしまう。「市民自治」という言葉とも、とても親和性がありますよね。繁華街の自治会や商工会なんかが、風紀の乱れをただし、安全・安心な町を作ります、なんて宣言して、街頭カメラをあちこちに設置してしまう例は、珍しくありません。
そんな、「民主主義的な監視社会」を打破するのって、ホントやっかいです。
ではどうやって抵抗していきましょうか。
全国各地の住基ネット差し止め訴訟でどんどん原告敗訴が確定して、きっとみなさまも悩んでらっしゃると思います。今度の税・社会保障一体改革で出てきた共通番号制には、マスメディアも一定の賛意を示しています。国民に徴税の不公平感がとても強いことの表れでしょう。オレはきちんと払ってるんだからお前も払え、というわけです。
お気づきかと思いますが、「オレがきちんと払ってるんだから」と思った時点で、その人は管理する側に立っていますよね。くどいようですが、管理する側にちょっとでも与すると、とたんにパノプティコンが理想的に見えてきます。
「そんなのは幻想に過ぎないんです」と、どうやったら世論を説得できるでしょう?
ひとつは、想像力を働かせることです。監視する側ではなく、監視される側の立場にいつも軸足をおくように意識付けをしてみたらどうでしょう。
ちょうど昨日の『北海道新聞』(2011年10月4日付け、「防犯監視の目道内にも ススキノに街頭カメラ」、無署名)が、いいルポ記事を書いていました。
札幌に、ススキノという大きな繁華街がありますが、警察庁がここに年度内に1200万円をかけて40台の街頭カメラを設置する計画を進めています。それについてどう感じるか、記者さんがススキノの町でインタビューをしてるんですね。「悪質な客引きの一掃につながり、家族連れや観光客に安心して足を運んでもらえる」という飲食店経営者男性(52)のコメントと並べて、〈風俗店で働く女性(27)は「勤め先を隠して働いている人もいる。悪いことをしているわけじゃないが、知らないうちに録画されるているのは気分が悪い」と不満を打ち明ける。〉と書いています。
どちらの人の側に立って考えるべきか、お分かりでしょう。
監視社会というのは、完璧な差別社会です。「やましいことをしていなければ心配なんてない」と、たいていの人は言うんですけど、その言葉を聞いてうつむいちゃう人もいるわけです。
別に身に覚えがなくても、逃避行せざるを得ない場合はあります。家出とか駆け落ちとか夜逃げとか。住基ネット差し止め北海道訴訟の原告団に、DV被害女性のためのシェルターを運営している方がいて、被害者母子が住基ネットによってどれほど追い詰められているか、法廷でこんなふうに陳述しました。
〈DV被害者やストーカー被害者の安全措置として、平成16年7月1日から住民票ブロック支援制度が開始されました。しかし、この支援制度を使っても、あいかわらず、脱出先を追跡されて新たな居住場所を突き止められ、子どもを拉致されたり、徳島のケースのように当事者が殺害されたりする事件が続発しています。住基ネットシステムそのものが、個人情報の秘匿を前提としていないからです。DV被害者は、11桁の番号を世帯主に把握されることによって、終わりのない追跡の恐怖に怯えなければなりません。サポートの現場では、安全な再出発を果たすために、当事者が住民票を動かさずに脱出することを、いま現在も鉄則としてます。その結果、昨(2008)年度実施された定額給付金については、多くのDV被害女性や子どもたちが、実質的な不利益を被ることになりました。着の身着のままで暴力の現場から身を離す当事者にとって、定額給付金は喉から手が出るほど必要なお金だったにもかかわらず、母子の支給分、数万円が加害者のポケットに入ってしまったのです。世帯単位住民管理システムとしての住基ネットが、真っ先に保護・回復支援を受けるべき人々の権利を徹底的に侵害しました〉
こうしたシェルターでは、被害者が駆け込んできたら、まずケータイの電源を切らせて、絶対に使わないよう助言するそうです。本人のケータイはそのまま預かり、必要なら別の新しいケータイを貸す。ケータイの発する電波を手がかりに加害者(配偶者など)に居どころをつかまれないようするための用心です。
監視社会の中で生じるこうした差別とその挙げ句の人権侵害を、ひとつずつていねいに掬い上げていくことは重要な作業だと思います。
もうひとつは、推進側が宣伝する効果の検証です。これまた北海道訴訟の成果ですが、住基ネット導入前夜の1998年、政府が宣伝に使っていた宣伝文句にこんなのがあったそうです。
「住民基本台帳ネットワークによって、住民票の写しの提出を省略できるようになり、年間総額136億7000万円分の利益が住民にもたらされます――」
住基ネット導入によって年間1000万件の住民票交付事務が省略され、住民が仕事を休んで役場の窓口に出向く必要がなくなるとし、一回あたりの所要時間70分・時給1000円・交通費200円と仮定して、総額136億なにがしを「住民の利益」と弾いたんですね。そこで控訴団が「1000万件」の内訳を求めたところ、国側が回答しました。失業保険給付申請と共済年金の現況届けが各360万件、恩給受給者の現況届けが167万件、その他120万件、と初めて公表したんです。でもこ調べ直してみたら、これらの申請や届けは、もともと住民票の写しを添える必要のない手続きばかり。試算は全くの架空だったんです。担当した弁護士は法廷で「国は住民の利便性向上を言うが、その根拠は極めつきに不合理でインチキ」と論破しました。
東京電力などの「原発神話」がまさにそうでしたが、いまどんなジャンルでも、権力を持つ組織や企業の広報宣伝は、非常に巧みです。鵜呑みにすると、神話ができてヤラれてしまいます。
例えば、さきほど、街頭カメラが増えたら治安がよくなる、とコメントした人の記事を紹介しましたけど、ホントにそうでしょうか?
これ、実は非常に難しい問題です。カメラを増やして、その町で何がどう変わったら「効果アリ」と判定できると思われますか?
A 犯罪認知数が減ったら効果アリ?
B 犯罪検挙数が増えたら効果アリ?
検挙率が変わらないとすると、AとBは正反対の結果ですけど、つまりどっちの数字が出ても判定は「効果あり」、ということになるんでしょうか?
東京の通勤電車には昨年ぐらいから天井に監視カメラが付き始めていますよね? 警察の強い要望で、「痴漢対策」の名目で設置されているのですが、やっぱり効果判定は難しいみたいで、ある鉄道会社は、「乗客に、安心感が増しましたか、などとアンケートを採るだけです」と正直に答えてくれました。ようするに、防犯効果は不明なんです。
英国ノースロンドン、トッテナムの町で、8月に大きな市民暴動が起きました。ロンドンは世界一の監視カメラ集中エリアです。街中に監視カメラが何台あろうと、時に人間は怒りに身を任せてしまうことがある、ということです。あるいはもしかすると、暴動参加者は、いつも柱の上から自分たちを犯罪予備軍として見下している(ように見える)カメラに対しても、怒りを蓄積していたのかも知れません。とすると、監視カメラが暴動をあおった、といえなくもありません。
いずれにせよ、こうやって神話=パノプティコンのユートピア幻想をちょっとずつでも崩していく作業もまた、とても大事だと思います。
きょうの私のつたないスピーチが、みなさまの生き方に少しでもヒントになればと願っています。ご清聴をありがとうございました。
2011年10月10日にウェブサイトにアップしました
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