空知の生物多様性

名前で読み解くエコロジー 空知の生物多様性

民主教育をすすめる岩見沢市民会議東光中学校区市民集会 講演予稿
2012年11月20日 岩見沢市立東小学校

平田剛士 フリーランス記者

 みなさん、こんにちは。きょうはお招きいただき、ありがとうございます。ご準備くださった東小学校の椿弘幸先生をはじめ、主催者のみなさま、またこんなにたくさんお集まりいただいたみなさまに深くお礼申し上げます。

 さっそくですが、1枚の写真からきょうのお話を始めたいと思います。
 ちょうど2週間前に撮影してきました。場所は宮城県石巻市。石巻市立門脇(かどのわき)小学校の校舎です。同じ小学校の校舎内でお見せするのは、ちょっとショックを与えてしまうかも知れません。すっかり廃墟になった状態で、平日の午前中でしたが、だれもいません。
 この衛星画像は、グーグルアースというサービスで公開されているものですが、門脇小学校の位置はここです。北側に建物が密集しているのに、このラインを境に急に跡形もなく消えてしまっているのが分かります。
 昨年3月11日午後2時46分、宮城県沖でM9.0という大きな地震が起き、45分後の3時半ごろ、巨大津波が沿岸部を襲います。門脇小学校の海側には住宅街が広がっていました。そこから100台もの自動車や家屋が火災を起こしたまま津波に運ばれ、校舎に押し寄せてきたそうです。火はすぐに校舎に燃え移り、数日間燃え続けたといいます。300人の児童たちのほとんどは裏山に避難しましたが、7人が犠牲になりました。

 警察庁のまとめでは、この11月14日現在で死者1万5873人、行方不明2744人、合わせて1万8617人の方が被害に遭われました。県別にみて最も多くの人が亡くなったのが宮城県で、死者9530人、行方不明1337人、合わせて1万0867人。犠牲者のうち約58%が宮城県の人たちです。
 石巻市は仙台市に次ぐ県内2番目の大きな都市です。震災前の人口は16万7000人ほどでしたので、こちら岩見沢市(8万8000人)の2倍弱の規模と思っていただいてよいでしょう。しかしこのたびの震災と津波によって県内最大の被害を受け、約3500人が亡くなり(関連死を含む)、いまも460人あまりが行方不明のままです。市内130カ所、計7300戸の仮設住宅は満杯で、1万6500人の人たちが避難生活を余儀なくされています。

 地震発生から1年8カ月が経ったいま、津波が残した膨大なガレキは決まった場所に片付けられて、ごらんのように更地みたいになっています。大勢が亡くなり、街が流され、大火災が起き、風景はすっかり様変わりしました。自然の脅威とはこのことでしょう。きょうのお話のテーマである生物多様性も、この地震と津波でずいぶん大きく変化させられたと思います。海岸林は消え、地盤沈下で陸地が湿地化しました。それでも自然生態系はたくましい復元力を備えていますね。ストレスに強いススキやシバなどのイネ科植物、これまた荒れ地に最初に侵入してくるパイオニア植物として知られるギシギシ(タデ科)といった植物がさっそく繁茂し始めていました。

 この写真は南三陸町の防災庁舎です。やはり大津波に襲われました。この庁舎内だけで42人が亡くなり、街は壊滅状態です。ちょろちょろと生え始めているのはパイオニア植物です。建物のすぐ前に運河が切られていて、オオセグロカモメが群れ泳いでいました。ひゅうひゅう風が吹く中で、おじいさんたちが竿を出していました。仮設暮らしだそうです。ハゼとかウグイとかウミタナゴが釣れていました。

 宮城の海辺の町から移動して、今度は福島県の浜通と呼ばれるエリア。川俣町(かわまたまち)山木屋(やまきや)地区です。ここは津波の被害はありませんでした。しかし原発事故で放出された放射能が降り注ぎ、「計画的避難地域」に指定されている場所です。
 いまだれも住んでおらず、帰村のメドも立っていません。去年と今年のたった2シーズン、耕作がストップしただけですが、田んぼはすっかりセイタカアワダチソウに覆われていました。里地里山の景観も生物多様性の重要な要素ですが、ヒトが消えてしまうとほんのわずかな時間で景観が大きく変わってしまうのを、目の当たりにしました。

 こちらは福島第一原発から25キロほどに位置する川内村です。こちらは帰村宣言して人が戻っていますが、除染作業が続いていました。こうしてフレコンパックに詰め込まれて道沿いにずっと並べられているのは、森の下草や落ち葉です。放射性物質は空から降下してきて、初め森の樹幹部にくっつきました。落ち葉と一緒に地上に落ち、そのまま地下に染みこんで地上から自然に消えていくことも期待されましたが、そうはいかず、落ち葉の層に滞留しているのです。


 「空知の生物多様性」というタイトルをつけながら、はじめに遠くの被災地のことばかりお伝えしたのには理由があります。繰り返しになりますが、わたしたちの暮らしているこの場所のこの自然景観も、もしかすると明日にでも一変してしまう可能性がある、ということをぜひ頭に留めておいてもらいたい、と思ったからです。
 震災後、避難所暮らしを経験したり、いま仮設暮らしをしている方たちのお話をうかがうと、それまで当たり前と思っていた日常生活が、いかに恵まれていたかを痛感したそうです。失って初めて知る価値というのがあるのです。食事、電気や暖房、トイレ、お風呂、プライバシーもそうでしょうし、きれいな空気、きれいな川、さわやかな風、気持ちよい海、寝転べる芝生、といったものもそうでしょう。震災や津波や原発事故で、被災地の人たちはこれらをことごとく奪われてしまいました。
 地震や噴火、干魃、厳冬、山火事に洪水に津波、もしかしたら隕石衝突といったものも含めた自然現象──いわゆる天災──によって自然環境が改変されてしまうのはどうしようもないとしても、放射能をはじめとする人工的な毒物の汚染は防げたはずです。風評被害もあって、福島を中心にした東北地方の農林水産業が非常に大きな打撃を受け続けています。放射能によって人が住めなくなってしまった結果、急激に環境が変化しているのは田んぼばかりではありません。木々も山菜もキノコも、ヤマベもウグイも、イノシシもサルも汚染されて、ヒトとのつながりが切れました。究極の自然破壊とは、人と自然の関係性を断ってしまうことなのだと、私は非常に強く感じています。


 さて、そうした頭で改めて地元の自然を見つめてみましょう。わたしはかれこれ20年ほど、日本の自然と人間社会の関係性をウオッチしてきました。一口に環境問題といいますけれど、それは「人間と自然との間のあつれき」のことなんですね。現代では人間のパワーが圧倒的なので、自然界がダメージを受けることが多い。たとえば自然破壊が過ぎてある種の生物を絶滅させてしまう、ある人為をきっかけに特定の生物を爆発的に増殖させてしまう、といったことです。でも人間側が被害を被ることもあります。増えすぎた野生動物が農地に襲来して作物を食べ尽くしてしまう、森の木を切りすぎて大規模な災害を引き起こしてしまう、といったケースがそうです。そんなあつれきを、完全にゼロにするのは難しいけれど、なるべく小さく抑える方法が、生態学者たちや保全生物学者たちによっていろいろ考案されていて、それを取材してきました。
 でもそんな工夫って、何も今に始まったことではありません。人と自然は、これまで営々と関係を保ち続けてきたんです。その最もベーシックな関係性は何だろうと考えました。たどりついたのが「それは名付けじゃないか」ということでした。
 とりわけ北海道在来の生物は、アイヌ語の名前を持っています。同じ種の生物にアイヌ名と和名とがあって、より重層的に「人間との関係性」を探ることができると言えると思います。

 これは空知地方の地図ですが、一番の特徴は、何といっても石狩川です。江別、岩見沢、美唄、砂川、滝川、深川、旭川──と、地名もこの川にちなんでつけられています。
 たとえば「江別」の語源をご存じでしょうか。アイヌ地名が語源で、いくつかの説がありますが、「ユペ・オッ」説は魅力的です。「チョウザメがたくさんいる」という意味なんです。滝川市にも江部乙町があり、これも同じ「ユペ・オッ」を漢字表記したといわれています。深川市と旭川市を分かつ内大部川の語源は「ナイ・タ・ユペ」で、こちらは「沢のチョウザメ」の意。「石狩川の絶壁の下で捕ったチョウザメを舟でこの沢へ運び入れて陸揚げした」という故事が伝わっています。
 砂川市と滝川市の境界で石狩川は空知川と合流しています。合流点から少し遡った、赤平市と砂川市と滝川市のちょうど接している場所ですが、「鮫淵」と地名がついています。郷土誌によると、かつてここはチョウザメたちの一大繁殖地でした。明治期には、9尺といいますから2メートル70センチもの巨大なチョウザメたちが集まってきていたといいます。さぞ壮観だったことでしょう。
 でもいま、石狩川でチョウザメをみることはありません。いわゆる絶滅種なんです。

 もう一種、石狩川を代表する魚をご紹介しましょう。これはイトウです。幕末の探検家、松浦武四郎をご存じでしょうか。三重県出身の人で、まだ日本政府による植民地化が行なわれる以前の「蝦夷が島」、アイヌ語で言うアイヌモシリ、つまり今の北海道の島を探検して詳細な博物学的記録を残した人です。
 この松浦武四郎の作品に『石狩日誌』があります。1858年、武四郎が40歳の時に敢行した石狩川水系探査に基づく記録で、1860年に書き上げられました。江別から小舟に乗って上流に向かい、シラルカブト(尾白利加川)、ウリウフト(雨竜川)のあたりに差しかかった晩、地元のアイヌの知人の家に泊めてもらい、翌朝出発の時に「チライ2匹を贈られた」と書いてあります。チライとは、イトウのことです。
 もう少しさかのぼって神居古潭(旭川市)まできた時にも、チライが登場します。ガイド役のアイヌが、マレフ(もり)を構えて岩の上に立ち、たちまち4尺くらいのチョウザメと、3尺くらいのチライを捕った、というのです。
 魚捕りをしたことのある人なら、これがどんなに驚異的かお分かりでしょう。この物語を読んで、わたしは思わず南米の原始河川アマゾン川を連想しました。そんな巨大な魚たちが悠然と暮らしていたなんて、残念ながら今の石狩川の姿からは想像がつきません。石狩川のイトウは現在、空知川上流の金山ダム湖と、雨竜川上流部の朱鞠内ダム湖に辛うじて生き残っているだけで、本流ではほぼ絶滅してしまったと考えられています。
 言語学者の知里真志保が残した『分類アイヌ語辞典』には、イトウのアイヌ語名がいくつも拾われています。分類学上の種名は同じですが、アイヌ民族はそれをもっと細かに呼び分けていた、というのです。

イトウ Hucho Perryii のアイヌ語名(知里真志保『分類アイヌ語辞典』から)

(1)チライ
(2)トシリ
(3)オペライペ
(4)ヤヤッテチェプ
(5)シアッチェプ
(6)オビラメ

 明治期まで狩猟採集の高い技術を保ってきたアイヌ民族は、イトウ同士の微細な違いを見分けていたのだと思います。それは、たとえば生息河川ごとの個性だったかも知れません。じっさい、同じ北海道のイトウたち同士でも、すんでいる川によって体型や繁殖行動などに相当の違いがあることが知られています。さらに最近、新しい生物学──分子系統学──の研究者たちが遺伝子を詳しく調べたところ、日本海、オホーツク海、根室海峡、それに太平洋沿岸に注ぐ生息河川で、イトウのグループ間に遺伝子レベルで明らかな違いがあることを突き止めました。

 今日のテーマは「生物多様性」ですけれど、多様性を尊重するには、まずはこうした個性を大事にする必要があります。つまり、絶滅しそうだからといって、安易によそから連れてきて放流するようなことは、かえって生物多様性を損なってしまう危険が高い、ということです。「遺伝的攪乱」といって、せっかく長い時間をかけて培われてきた特異性をいっぺんに失ってしまうおそれがあり、これはいったん起きると元に戻せません。
 逆に言うと、地域ごとの群れを絶滅させてしまったら、もうその場所で完全に復元することは不可能だ、ということです。だからこそ、絶滅させない努力が欠かせません。


 この写真は、滝川市内の第一出島川という、かつて石狩川の一部だった蛇行部分を切り離したあとにできた三日月湖、河跡湖での生物調査の様子です。タイリクバラタナゴ、モツゴ、ゲンゴロウブナといった魚がたくさんとれました。たぶん、岩見沢市内の同じような環境でも似たような結果になるのではないでしょうか。
 例によって名前を読み解いてみると、これらにアイヌ語名はありません。理由がお分かりですか? そう、在来種ではなく、最近になってやって来た外来生物だからです。

 これは5年前、三笠市内の幾春別川で発見されたワニガメです。カメのサイズってなかなか測りにくいんですが、甲羅の長さは25cm、でも首と尻尾をにゅーっと伸ばした瞬間に測ると52cmありました。
 いっぽうこちらは江別市の野幌森林公園内の大沢池で撮影されたミシシッピアカミミガメ。近くに住む自然愛好家の久米谷弘幸さんが撮影されたものです。これらのカメたちに、やっぱりアイヌ語の名前はありません。アイヌ語にあるのはウミガメの名前だけです。北海道には最近まで、淡水ガメは1種も生息していなかったのです。

 今年夏、全道一斉にフラワーソンとハープソンが開かれました。前者は咲いている花の確認数を競うもの。後者はそれの両生・爬虫類版です。競争であると同時に、情報を集約すると、各地の植物や両生爬虫類の分布が分かるんですね。仲間たちと私も参加しまして、その時に見つけたのがこれらの種です。もう、ことごとく外来種でした。

 カメやカエルたちは強力なプレデター、つまりほかの小動物をばくばくと食べる捕食者たちです。植物にしても、都市部とか河川敷、農地の周辺では、世界の強力なパイオニア植物が真っ先に侵入してきて、こればかり目立つ状態になっています。いま世界中で問題化していますが、こうした外来生物もまた、生物多様性の大きな脅威です。


 極端に数を減らした種、道外から持ち込まれる外来生物ときて、こんどは極端に数を増やしている種を見ましょう。ご存じエゾシカです。シカは在来種で、たくさんアイヌ語名があります。一部をご紹介しましょう。

美幌地方でのシカの呼び名(知里真志保『分類アイヌ語辞典』から)

ポイユク(一歳のシカ)
リヤウ(二歳のシカ)
レハウネプ(三歳の雄ジカ)
アプカ(四歳の雄ジカ)
シアプカ(五歳以上の雄ジカ)
モマンペ(三歳以上の雌ジカ)

 シカは古来、人類の重要な食料であり続けてきましたが、それはアイヌ民族にとっても同じです。名前の多さは関係性の深さを表していると私は思うのですが、なかでも、今日一般的なエゾシカのアイヌ語名はユクです。どういう意味でしょう? 知里真志保著『分類アイヌ語辞典』から引用してみます。

「叙事詩の中で、「カムイ・チコイキプ、ユク・チコイキプ」(クマなるケダモノ、シカなるケダモノ)のように対句のように用いることが多い。このユク・チコイキプのユクは、いま、単独ではもっぱらシカの意に用いられるが、古くはもっと意味が広く、ケダモノの中でも狩りの対象として、またその肉が食料として特に重要であったクマ・シカ・エゾタヌキ等のどれをもさす名称であったらしい」

 和人がコメのことをゴハンと呼ぶのと似ている気がします。
 
 こんなに人間との関係性が深かったシカが、いま増えすぎて、人間との間で大きな軋轢を生んでいます。食害額が年間60億円、交通事故も多発し、「もはやこれは災害だ」と、捕獲のために自衛隊が駆り出されるところまできています。
 これは、かつて深かったシカと人間の関係性が、明治期から昭和時代にかけて、すっかり廃れてしまったせいだと思います。明治以降の日本政府はアイヌ民族に伝統的な狩猟法を禁じましたし、明治初期、毛皮や肉目当ての乱獲と春先の異常低温でシカの数が激減してしまったあと、北海道で国策として牧畜産業が発展したために、シカ肉食文化が失われてしまいました。いませっかくシカが増えて、いわば「豊猟期」を迎えているというのに、ぜんぜん喜ばれていないのは、残念なことです。
 それでもエゾシカ協会(札幌)などの活動によって再びシカ肉が注目を集め出しています。衛生マニュアルに基づいて安全性を認証された製品には安全安心マークがお肉のパックについています。日の出町の「生鮮日の出」というスーパーをご存じですか? すでにおいしいシカ肉が常備されているので、ぜひお試しになってみてください。おいしいのをいただきながら同時に地元の生物多様性の保全に貢献できるなんて、これは北海道民ならではの幸せな体験だと思います。


 極端に数を減らした種、道外から持ち込まれた外来生物、逆に極端に増えてしまった種をみてきました。いずれも生物多様性に対する「4つの危機」として、政府の国家戦略に書き込まれているものばかりです。

「第1の危機」開発など人間活動による危機

「第2の危機」自然に対する働きかけの縮小による危機

「第3の危機」外来種など人間により持ち込まれたものによる危機

「第4の危機」地球温暖化や海洋酸性化など地球環境の変化による危機

「生物多様性国家戦略 2012-2020」より

 それでは、なぜ生物多様性を守る必要があるのでしょう。たいていの人は、チョウザメやイトウが絶滅したからって、あるいはミシシッピアカミミガメやタイリクバラタナゴが登場したからといって、すぐさま生活に支障が出るわけではありません。シカが増えて、田んぼや畑を荒らされる農家の人は別でしょうが、食い荒らしにあって仮に森の植生が大きく変わったとしても、やっぱりすぐに影響は感じません。

 でも、ちょっと長いスパンで見たらどうでしょう? そんな変化が少しずつ積み重なって、数年か十数年ですっかり変質してしまうとしたら?
 人間は、人工的な都市を築いてすっかり自然界と無縁に暮らしているように見えて、じつは自然界からの恩恵に頼り切って生きています。きれいな空気、きれいな水、適度な気温や湿度、さわやかな風、安全な食べ物……。どれも地球上の複雑な生態系によって提供されているものです。ひっくるめて生態系サービスと呼ばれます。

 これら生態系サービスを、ほんの数日のうちにいっぺんに奪いさってしまったのが福島での東京電力福島第一原発事故でした。政府復興庁のまとめでは、11月7日現在の避難者数は約32万5000人ですが、このうち福島県民で県外へ避難している人が5万8608人にのぼっています。生態系サービスを受けられない場所に、人は生活できません。
 このたびの大震災と原発事故を、生物多様性のフィルターを通して見つめ直すと、こんなふうに見えるんだとみなさんにお伝えしたいと思って、きょうはこんなお話をさせてもらいました。どこか遠くの自然を守るのではなく、自分の身のまわりでこそ生物多様性を大切していく必要があるんだと、お分かりいただけたのではないかと思います。

 じゃあ私たちは、具体的にどんなことができるでしょう? さきほど国家戦略の「4つの危機」をご紹介しましたが、福島を訪ねてみると、やはり脱原発を急がなくては、という思いが強まります。
 いよいよ冬本番を迎え、エネルギーは本当に身近なテーマです。生物多様性がもたらしてくれるともいえる再生可能エネルギー──たとえば木質ペレットや風力発電、小水力発電といったものですが──へのシフトは、ハードルが高いと思い込みがちですが、やってみたらあんがい、すんなりできるのかも知れません。というのも、よく考えてみたら私たちはこの百数十年の間に、薪から石炭、石油、さらに原子力と、なんどもエネルギー革命を経験してきているからです。石炭から石油への「革命」時、これはまさに国策による切り捨てだったかと思いますが、最も影響を受けたのがこの空知地方でした。その国策が最悪の形で失敗しまった今、こんどは市民の側から、新たなチャレンジを仕掛けるときかも知れません。

 手前味噌ですが、仲間とつくっている「たきかわ環境フォーラム」という市民グループの主催で、今週末と来週末、滝川市内で2週連続で再生可能エネルギーをテーマにしたイベントを企画しているので、もしよかったらぜひ足を運んでやってください。

 さて、最後の写真はこれです。滝川市内の空知川で、地元の小さな小学校の総合学習に協力して、魚の調査をしたときに撮影したワンシーンです。イトウやチョウザメは捕れませんでしたが、ウグイやサクラマスやカワヤツメなど、この地方在来の魚たちがまだまだ健在でした。こんな生物多様性に恵まれた空知の風土に囲まれて、いつまでも暮らしていけたら幸せだと思います。

 ご静聴をありがとうございました。


2012年11月21日にウェブに掲載しました。(C) 2012 Hirata Tsuyoshi, All rights reserved.

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