北海道工業大学講義「環境ビジネス」2005年9月21日

第2回 平田剛士、自作を語る――野生動物保護管理編

平田剛士

 みなさん、こんにちは。この3連休はリフレッシュできましたか?
 僕は初めて、薪ストーブに挑戦しましてね。薪ストーブ、知ってます? ガソリンも灯油も高騰しているでしょう? 戦争とか、ハリケーンで精油所が壊れたとか、理由は様々、市場でボロ儲けしている人たちもいるんでしょうけれど、クルマに乗るのを控える人が増えて、環境保全とか脱クルマ社会の観点からすれば、これはイイコトかもなあ、と思っているんですが、これから冬に向かって、そろそろ暖房の季節で、さすがにこれは焚かないわけにはいきません。うちは灯油暖房なんだけど、この冬は大変だぞと。身近な代替エネルギーって何だろうなあと考えていて、木質エネルギーとかバイオマスエネルギーとか、みなさんも聞いたことあると思いますが、そういうのをまず自分の家でも取り入れられないかなあと思って、薪ストーブのことを少し、ストーブを売っているお店や、実際に使っている人に聞いて回ったりしたんです。
 これまで使ったことはもちろん、じっくり見たこともなかったんですが、薪ストーブって、非常に良くできてるんですよ。近くの金物屋さんでウインドウに飾ってあったのを見て、函館の酒井板金工業というメーカーが作ってるライオン印の「卵型」の「大」というのを買ってきたんですが、だいたい幾らぐらいだと思います? 意外に安くて、5000円弱でした。構造はシンプルで、鉄の薄板を継ぎ合わせて作ってあります。職人技ですね。長さが70センチ、幅が40センチ、高さが30センチくらい。こんな形をしていて、薪をくべる扉がここ、煙突の取り付け口が反対側のここ。煙突の直径は106ミリです。
 内部はがらんどうで、全部が燃焼室。だから、いったん火が入ると一気に加熱して、猛烈に熱を発します。これが洋風の鋳鉄のタイプ、あるいはレンガや石を組んだいわゆる暖炉の場合だと、蓄熱というのかな、鋳鉄や暖炉の内部が火で炙られて、じわじわ暖まって何時間かかけてやっと暖かくなるわけですが、この鉄板製の薪ストーブはもう、いきなりヒートアップするんです。薪に火が点くと、ストーブの表面に焼きが入って色が変わるのが分かるし、煙突もかーっと変色します。ただし火が消えたら一気に冷えますので、一晩中過ごすんだったら、薪をくべ続けなければならない、というのはあります。
 良くできていると思ったのは、空気の流れの制御です。煙突はこう、上の方に延ばします。燃焼室は低い位置で、本体の煙突口と壁一枚で隔てられて、低いところに開いてます。燃焼ガスは当然、上昇気流となるわけですが、この煙突口の位置決めが絶妙で、たぶん燃焼ガスが渦巻きながら出口を探し当てたら、煙突を伝って一気に急上昇するために、燃焼室の気圧が下がって、こちらの吸気口から外部の空気が燃焼室に吸い込まれる。こういう空気の循環が生まれて、見事に完全燃焼が進むわけです。地べたで焚き火をすると不完全燃焼で黒いスス混じりの煙がもくもく出るわけですが、同じ薪を使っても、ストーブだと非常に効率よく燃え、当然煙もごく少ない。これは改めて感動的です。
 ぜひこれをこの冬は活用したいと思って買ってみたのですが、まだ家の壁に煙突の穴を開ける踏ん切りがつかずにいます。今回はとりあえず庭に置いて、薪ストーブを焚いて、焼き芋とダッチオーブンの料理をしてみたというわけです。焚き火だと煙いし、近所から文句言われるし、地面に焦げ跡が付いて環境破壊ですから、あんましお勧めしませんが、薪ストーブをアウトドアで使うっていうの、ぜひみなさんも試してみてください。
 で、このことがきょうの講義にどう関係するかといえば、薪ストーブを買って焼き芋を焼いてみた、たったこれだけの経験ですけど、なんだか1冊、「環境時代によみがえれ薪ストーブ」とかタイトルと付けて、本を書けるかもしれないなあと。フリーライターというのはそういう鵜の目鷹の目の人種なのだと。あるいは環境ビジネスみたいなものも、そういうふうにどこにでもアイディアは転がってるかも知れないよと、お伝えできるかなと思ってお話ししてみました。
 さて、本題に戻りましょうか。先週、宿題を出しました。答えを申し上げると、出題したのは「日本国憲法前文」でした。
 ご存じと思いますが、第二次世界大戦で1945年に連合国軍に負けた日本は、しばらくの間、進駐軍に占領されます。実体は米軍でしたが、その司令官がダグラス・マッカーサーという軍人。欽定憲法だった大日本帝国憲法を捨てて、民主的な新しい憲法を作りなさいと日本政府に命じました。はじめ、日本政府は古い憲法の焼き直しでお茶を濁そうとした。進駐軍も日本の国民も、バカヤロウと突き返しました。何考えてんだ、と。もう戦争はこりごりだ、自国の軍隊に殺されるなんてまっぴらゴメンだ、そういう気持ちを、日本の指導者たちは敗戦後もちっとも感じ取っていなかったんです。
 マッカーサーは日本の指導者たちに憲法立案能力はないと判断して、代わりに、若いアメリカ人たちに草案を作らせた。平均年齢は40歳前後だったそうです。20代の人もいたし、女性もいた。そういう自由と民主主義の理想や希望に溢れた世代のアメリカ人たちからなる委員会が作った草案を土台にして、それから改めて日本人指導者たちも交えて修正しながら、新しい憲法を作ったんです。だから日本国憲法は英文が先に出来て、それを日本語に翻訳した形になっています。みなさんに翻訳してもらったのは、みなさんと近い世代の人たちが苦労して考えて生みだしたオリジナルの英文だったのです。
 僕は先週、ジャーナリストにとって、これは最大の武器だと言ったのですが、その意味はお分かりでしょうか? この文章、「We, the Japanese people,...do proclaim that....」、つまり「ぼくら日本の国民は、いま……を宣言します」と始まっています。主語は「ぼくらは」です。「政府は」「総理は」「天皇は」じゃない。この憲法、「ぼくら」が、「政府」「天皇」「軍隊」、そういうものに対して命じているんです。たとえば9条、「戦争を放棄せよ」と。たとえば19条、「思想と良心の自由を侵すな」と。たとえば21条、「表現の自由を侵すな」と。そして、たとえば99条、「この憲法を順守せよ」と。そのことを保障してくれているのがこの日本国憲法で、権力に抗うジャーナリズムにとって、これが最大の武器だというのは、そういう意味です。
 そういうジャーナリズムが環境問題を捉えるやり方も、かつてはアンチ権力という色彩が鮮明でした。環境破壊をするのは巨大な官庁や企業であることがほとんどだった。原発、ダム、河川改修、埋立、コンビナート、森林伐採、そういった大規模開発がターゲットだったのです。でも80年代ごろから、いわゆる環境意識が高まって、90年代以降は巨大開発にだんだんストップがかかるようになってきた。21世紀になると環境庁が環境省に格上げされ、自然再生法のような新しい法律もできてきた。権力が自然環境を破壊し、市民がそれに対抗するという図式は、もちろん現在もありますが、かつてほど顕著ではなくなってきています。
 ぼく自身の軌跡がまさにそう。1995年に初めて出したのが、この『北海道ワイルドライフ・リポート』という本ですが、たとえばタンチョウの保護について書いた章では、戦後道東で非常に大規模におこなわれた政府主導の草地開発事業が、タンチョウの生息地である湿原を次々に潰してきた、その経緯を描いています。
 草地開発って、どうやるか知ってます? 地表面に対して、地下水層がギリギリまで上がってきているのが、湿原です。踏み込んだらぐちゅぐちゅの水浸し、枯れたヨシの繊維が敷物のように密に組み合わさって、その上を歩くと地面ごと揺れる様な状態です。その下は泥炭層になっています。
 この湿原を草地にする。草というのはもちろん牧草で、湿地には生えません。そこでまず、水を取り除く。排水といいます。
 まず、湿原の川というのは例外なく蛇行しているものですが、これをがーっと直線化してしまいます。それから、湿原に櫛を入れるみたいに、川と直交するように何本も深い溝を掘ります。だいたい深さ2メートルくらいでしょうか。明渠排水路と呼ばれています。
 地下水位より低い場所にこの明渠を掘るわけですから、この断面からたらたら、たらたら、水が滴り落ちて水路を通り、直線化した川に出て、下流に流し去るわけです。
 物質循環というのを聞いたことがあるでしょう? 物質は絶えず動いているのだけれど、インプットとアウトプットのバランスが取れていると、見た目の環境は安定を保つわけです。ところが明渠を掘って、水のアウトプットだけを徹底的にスピードアップするとどうなるか。地下水位は下がり、地表面は一気に乾燥化が進みます。こうして湿原は簡単に消え失せ、牧草畑にされるというわけです。
 当然ながら在来の湿原生態系も失われていまいますが、その代表格がタンチョウです。一方で特別天然記念物に指定しておきながら、政府の公共事業がタンチョウの生息域を急速に狭めている実体を、この本でかなり詳しく報じることができました。まさに大権力が環境を破壊している好例でした。
 また同じ本で、ヒグマについてこんなことを書いています。こんどの舞台は南大夕張です。炭鉱として栄えた地域ですが、訪ねてみると、めちゃくちゃな山奥です。ここに戦後、樺太からの引揚者が入植しました。日本が植民地化した樺太=サハリンには、大勢の人びとが入植していたのですが、敗戦後はソ連領になり、一斉に帰国させられたのです。といっても、国内にだって受け入れ先がない。難民と同じです。それで日本政府は、未開の山中を提供することにした。成功検査といって、何年か後までにじょうずに開墾し終えたら、この土地は無償でやる、そういう条件でなかば強制的に山の中に送り込んだんです。
 それでも入植者たちは苦労に耐え、いまでは夕張メロンの一大産地に育て上げた。そこにヒグマが出没して食害を起こしているというので、取材に行ったのです。1994年ごろです。
 山奥にメロン畑を作ったらクマが出るのは当たり前じゃん、と思って訪ねていったんですが、違いました。ここに何十年も暮らしてきたけど、クマが出るようになったのは最近だ、というのです。夕張の山は本当に豊かで、一歩森に入ったら、ドングリもアケビもヤマブドウもコクワも、キノコなんかも含めて、いくらでもあったそうです。ところが70年代後半から80年代にかけて、林野庁が天然林を伐採して、一斉に人工林に変えてしまった。おかげで森からクマの食料が消えて、クマたちは危険なメロン畑に来るようになった、そういう因果関係を地元の人はよく理解していました。
 この本では、ワイルドライフ・マネジメントという当時まだ新しかった概念を、ルポルタージュのかたちで紹介することができました。ワイルドライフは野生動物、マネジメントは管理とか運営とか、そういう意味です。日本語では野生動物管理という訳語があてられています。
 これは何かというと、人間の社会と野生動物の群れとの間で、軋轢がある場合、たとえばヒグマの食害でメロン農家が困っている、被害者は猟友会に頼んで出没グマを撃つので、クマの側も個体数を減らしてしまう、そういう軋轢ですが、お互い少しずつ譲歩して、なんとか折り合いをつけられないか、その妥協点を調整し、実現していくための技術のことです。
 たとえば、食害をゼロにしろとは言わないが、せめて半分にしてくれ、と人間側が譲歩することで、その地域のヒグマの個体群を、たまには駆除で殺すけれども、少なくとも群れ全部を滅ぼすことは回避する、と。そういうマネジメントの技術です。
 具体的には、動物の数を数えて、減り具合、増え具合をずーっと調べ続けます。周囲の環境変化も追い続けます。いっぽう、食害などのデータも調べ続けて、駆除や狩猟なんかで人間が何頭殺したか、そのデータも調べ続けます。モニタリングと呼びますが、その結果をお互いにつき合わせてみると、この地域のヒグマと人間社会の関係が浮かび上がってくるんです。「クマが増えているみたいだ」とか「クマが減っているみたいだ」とか「森のドングリの木を切ったからじゃないか」とか、漠然と印象で語るのではなく、科学的なモニタリングをやると、客観的なデータとして、実態が分かるわけです。
 自然保護とか環境保全とか、いろんな意見の人がいます。熊が駆除される映像を見て、「熊ちゃんがかわいそう」と言う人がいるかと思えば、「アンタら都会の人は何も分かっちゃいない、熊と人間とどっちが大事なんだ」と反論が出てくる。時に感情的になりがちな人同士の間に立って、マネジメントしなければならない。そういういろんな意見の人が同じテーブルで相談し合うには、もう客観的なデータを用意するしか方法はないんです。それは科学的アプローチによってのみ、集められるもので、データだけが説得力を持ちます。サイエンスの本質ってそういうものだと、僕は思っています。
 さて、そういうデータを元に、またいろんな意見の人を同じテーブルに集めて一緒に議論して、社会と野生動物と、お互いの軋轢を最小化するのがワイルドライフ・マネジメントです。この本を出した1995年ごろは、まだ日本ではこの方法は採用されていませんでした。北海道がそれを始めようと準備していた時期で、若い研究者たちがホントにこれをやるんだって燃えて尽力しているのを、魅力的な人たちだなあ、と思って書いたのがこの本です。ただ、背景にはやはり、さきほど言ったような湿原破壊だとか一斉植林だとか、これまでの政府の自然破壊に対する怒りが強くありましたので、伝統的な意味できわめてジャーナリスティックな作品だったと思います。
 その後、公共事業問題をテーマにしたその名も『環境を破壊する公共事業』という本を共著で出し、外来種問題を扱った『エイリアン・スピーシーズ』を出した後、同じワイルドライフ・マネジメントを扱った『ルポ・日本の生物多様性』を出しました。これは前作から7〜8年後、当時スタートしかけていた保護管理政策が、その後どんなふうに機能しているか、検証するという意味合いの強いリポートになっています。
 この間、行政は舵を大きく切っています。環境庁が環境省に格上げされ、河川法や環境アセス法が改正され、自然再生法もできました。少なくとも表向き、権力機構が方針転換したのです。先週、お話ししましたけど、ちょうど55年体制が途切れて、自民党が政権を明け渡した時期と概ね重なります。連立政権に参加した新党さきがけを中心に、環境配慮型社会への転換が積極的に図られたんですね。政治は世の中を変える力を確かに持っている。その政治家たちを選ぶのが選挙ですから、やっぱり世の中を変えるのはわれわれ一人ひとりの力だということになるでしょうか。
 バブルが崩壊して各地のリゾート開発計画が潰れたり、公共事業費が大幅に削減されたお陰もあって、もちろん強行されるものもありましたが、権力機構による大規模な環境破壊の心配は、ずいぶん和らいだのです。
 でもこの時期、環境問題はますますクローズアップされています。僕は問題の質が変わったんだと認識してます。この本の冒頭で取り上げたのは、海鳥でした。天売島という島を訪ねて、地元でずっと観察を続けている小野さんという研究者さんに同行取材しました。ここは日本で唯一、ウミガラスが繁殖している島なのですが、かつて8000羽もいたのが激減して、いまではようやく数つがいを確認できるだけになってしまっています。
 何が原因か。ロシアの研究者が書いた報告書を見つけました。沿海州からオホーツク海、クリル列島周辺、いわゆるロシア200カイリ漁業水域と呼ばれる海域で、90年代の5シーズン、それぞれ初夏の数カ月が漁期なのですが、サケマス流し網の漁船に同乗して調べた報告です。それによると、1シーズン平均で18万6000羽の海鳥が流し網に混獲されていた、というデータでした。
 どうやら漁業が海鳥に甚大な影響を与えているらしい。この報告はそう示唆しているのですが、では日本近海ではどうなのか。サケマス流し網以外はどうなのか。調べてみると、データは見つからないのですが、こんなことが分かってきました。規制を恐れて漁業者たちは混獲の実態を明かそうとしない。そんな漁業者を日本の水産庁ががっちりガードしている、という構図です。
 水産庁が押さえているせいか、ほとんど報道されませんが、いま日本の漁船が、海鳥にひどい被害を与えているとして国際的に非難されているんです。やり玉に挙がっているのはマグロなどの延縄漁です。
 当然、対策をとれと要請されるわけです。その前提として、まず実態を調べよと。だって、対策前と対策後を比べてはじめて、対策が効果あったかどうか、判定できるでしょう? でも、日本政府からは現状を調べたデータが出てきません。水産庁に取材しました。答えはこうです。「漁業者にアンケートをとっても、どこまでホントのことを言ってくれるか、信憑性に欠けますしね」。バカ言っちゃいけない。まったく腰が引けてるんです。
 環境問題の質が変わってきたと言いましたが、かつては政府などの公共事業や政策が元凶だった。それが改善されると、たとえば漁業者、あるいは農業者、あるいは登山者、あるいは釣り人、あるいはペット愛好者、そんな「個人の集まり」の環境破壊が浮き彫りになってきたのです。ダイオキシン汚染のこと、聞いたことがあるでしょう? いま環境中に残留しているダイオキシン類の筆頭は、60年代〜70年代にかけて水田で使用された農薬由来だと分かりました。焚き火をしてもダイオキシンが出るから、と焚き火が白い目で見られるようになって、やむなく薪ストーブで焼きイモしていますが、焚き火のダイオキシンなんて、比べものになりません。それほどのダイオキシンがかつて農家によって無自覚に大量放出されていた。その結果がいまの世の中です。
 ちりも積もれば山となると言うとおり、個人個人がほんのわずかずつ環境に負担をかけていることが、積もり積もって大きなインパクトになっている。そのことに気づいて書いたのがこの作品でした。
 では、ちりも積もれば山となる式の積分的インパクトは、どうやったら制御できるだろうか。やっぱりワイルドライフ・マネジメントの手法が役立つと思います。ごく単純に言えば、(1)科学的手法で現状を把握する、(2)議論の場を作る、(3)データを元に目標値を決める、(4)目標に向けて具体策を考える、(5)具体策を実行してみる、(6)実行後のデータをとる、(7)実行前後のデータを比べる、(8)対策の成功・失敗を判断する、(9)よりよい対策を作り直す、といった順序でしょうか。
 またみなさんにクイズをしましょう。この授業は環境ビジネス論なので、このワイルドライフ・マネジメントをビジネスにつなげることを考えてみます。ワイルドライフ・マネジメントって、お金がかかるんです。しかも、これでお終い、ということがない。半永久的に続けて初めて効果が出てくる、いわば生活の一部にすべきものなのです。生物多様性の授業か何かで、持続可能な農業とか、習ったでしょう? 現在の生物多様性を破壊せずに持続させるには、それが日常的な行為として定着する必要があります。
 でもこれから新しく始めようとするときには、お金も時間も人手も余計にかかるように感じる。でも言葉を換えると、そこにビジネスがあるということです。それぞれのステージでどんな仕事があり得るか、ちょっと考えてみてください。
 ワイルドライフ・マネジメントは、試行錯誤を前提としています。一度決めた方法でも、具合が悪いと分かったらすぐ改める仕組みを、最初から組み込んであるんです。コンピュータのプログラム用語からとって、フィードバック・システムと呼ぶこともあります。この『ルポ・日本の生物多様性』という本では、まさに試行錯誤のまっただ中の状況を書くことができました。もちろん、いつまでもやり直ししていたら世間からそっぽを向かれますので、どんどん改善していく努力がものすごく必要なのですが、そういう当事者さんたちの姿を描いています。
 この分野の仕事、フリーライターと同様、大金持ちにはなれないかも知れませんが、やりがいはあると思います。全体を司るマネージャーとかコーディネーターを務めるには、相当のスキルも必要だと思いますが、生涯をかける価値のある仕事のひとつだと思います。関心ある人は、ぜひこれらの本を読んでみて下さい。
 今日の講義はこれでお終いです。

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