アイヌ葬送儀礼の復活
2016年11月26日、東北学院大学アジア流域文化研究所
公開講演会「日中韓周縁域における信仰のありかた」
はじめに
フリーライターの平田剛士です。このように大勢のみなさまの前でお話しする機会を与えていただき、とても光栄に感じています。コーディネートくださった榎森進名誉教授と、主催の東北学院大学アジア流域文化研究所のみなさまに、この場を借りて深くお礼申し上げます。
このプレゼンテーションの主役はアイヌの葛野次雄さん、葛野大喜さんのお二人ですが、それに先だって、お二人にお話しいただく前に押さえておくべき「アイヌについての基礎知識」をお伝えするのに、僭越ながら、和人の私がレクチャー役を仰せつかりました。和人という用語は、とりあえず「アイヌ民族ではない」というほどの意味、と受け取って下さい。
まず本日の演題、「アイヌ葬送儀礼の復活」というのをご覧になって、不思議に思われたかも知れません。「復活」とは、いったん死に絶えていたのが再びよみがえった、という意味です。アイヌの葬送儀礼は、たしかに長らく途絶えていたのです。それがこの夏、2016年7月15日〜17日にかけて、北海道浦河町の杵臼という地区で、こちら葛野さんたちのご尽力によって復活しました。でもなぜ、長らく途絶えていたのでしょうか。それを説明するには、北海道をめぐる近現代の歴史を振り返る必要があります。キーワードは「植民地支配と先住民族」です。
最初の植民地
みなさんの北海道に対するイメージはどんなものでしょう?
北海道旅行をされた経験はありますか? 日本の本州から南の地域にお住まいのみなさんにとって、北海道のイメージは第1に「観光旅行先」としてのものではないでしょうか。
江戸期の19世紀中ごろまでは、日本から見て、この島は少なくとも「国内」ではありませんでした。しかしいまから147年前、西暦1869年、つまり明治2年、成立したばかりの明治政府は、それまで「蝦夷地」「蝦夷が島」などと呼んでいたこの島とクナシリ島、エトロフ島、それにカラフト島(サハリン島)などを内国化すると宣言して、それぞれ北海道、樺太州と名付けます。
当時の日本政府のスローガンは「富国強兵」「脱亜入欧」です。江戸幕府の鎖国政策を解除して、「列強(the great powers)」と呼ばれたヨーロッパの国々やアメリカに追いつけとばかり、勢力拡大に血道を上げる時代が幕を開けたのです。明治政府は帝国主義(imperialism)を標榜し、植民地獲得競争に乗り出します。その最初期の標的が蝦夷が島=北海道でした。さらに1872年の琉球併合、1895年の台湾併合、1910年の韓国併合と続きます。
いっぽう、この島には「アイヌモシリ(aynu mosir)」という別名があります。アイヌ=人の、モ=静かな、シリ=大地、で「人の静かな大地」、あるいはモシリ=世界、で「人間の島」といった意味です。この言葉はアイヌイタ?、すなわちアイヌの言葉、アイヌ語です。この島にはずっとアイヌがすみ、豊かな自然資源を利用しながら生活を営み、日本を含む海外の人々と盛んに対外交易を行ない、独自の文化を育み、各地で自治集団を形成して、──ようするにこの広大な島を支配していました。
帝国主義とは、「国家が領土や勢力範囲拡大を目指し他民族や他国家を侵略抑圧する活動政策 (a policy of extending a country's power and influence through colonization, use of military force, or other means)」のことです。日本の明治政府は北方に領土を広げるために、真っ先にアイヌモシリのアイヌを侵略したのです。まずこの歴史的事実をよくご記憶ください。
アイヌ「侵略抑圧」の実態
次に、当時の日本政府によるアイヌ侵略と抑圧の具体的な中身をご紹介します。
1869 |
蝦夷地を内国化して北海道と改称。 |
1871 |
戸籍法公布。アイヌを「日本国民」へ編入。 |
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女性の入れ墨、男性のイヤリングを禁止。アイヌ語の禁止。死者の出た家屋を燃やすアイヌの儀礼を禁止。 |
1872 |
官有地を売り下げ先を和人に限定。 |
1875 |
シカ猟を規制。 |
1876 |
上記ファッション・スタイルを厳禁し、違反者は厳重処分。 |
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創氏を強制し、和人風の姓名を強要。 |
1878 |
官製の呼称を「旧土人」に統一。 |
無数にあるのですが、第1に挙げるべきは、北海道のすべての土地を一方的に官有化したうえ、入植者に払い下げたことです。「開拓地」と位置づけた北海道に、明治政府は本州以南の各地から大量の移民を送り込み、入植先の先住民を強制的に移住させたりします。
第2に、人々を強制的に支配下に押し込め、個人の自己決定権や、集団の自治権を奪いました。
第3に、日本政府は生業の権利や外交の権利を奪いました。漁場や猟場を奪っただけでなく、伝統的な狩猟法・漁法を禁じ、自由に交易する権利を完全に閉ざしました。
第4に、同化政策といって、生活スタイル全般にわたって和風化を強制しました。アイヌ語は禁止、名前も和風に。独自のファッションや音楽・ダンスなどを禁止し、天皇崇拝を強制しました。それぞれの宣教師たちが仏教や神道やキリスト教を広めました。それまで土人と呼んでいたのを、戸籍簿に「北海道旧土人」という新しいカテゴリーを設けて押し込みました。「同化」とうそぶきながら公然と見下し、差別しました。後に韓国や台湾や満州(中国北東部)でやるのと同じような侵略を、最初に北海道でアイヌに対して行なったのです。
継続された植民地主義
でも、そんな日本の植民地主義時代って昔のことですよね? と思われるかもしれません。
確かに昔、いまから71年も前、アジア・太平洋戦争に敗北した日本政府はポツダム宣言を受け入れて、韓国(朝鮮)、台湾、満州(中国北東部)、樺太(サハリン)、千島南部(南クリル)などの行政権を放棄し、入植者たちを内地≠ノ撤退させます。いわゆる「引き揚げ」です。大日本帝国憲法を現行の日本国憲法に改正し、民主主義国家への移行を果たしました。これで日本の植民支配地はなくなったはずでした。ところが北海道と沖縄はそのまま日本領として維持されます。
ポツダム宣言
Potsdam Declaration
Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender
カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
the "Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku, and such minor islands as we determine," as had been announced in the Cairo Declaration in 1943.
この時、もし北海道でも明確な形で植民政策が終結していたら、植民地化で迷惑をかけた相手集団=先住民族に対し、植民政府や入植者がどんな仕打ちをしてきたか詳しく検証し、謝罪したうえ、損害賠償や原状回復を申し出て、関係修復を図ることも可能だったでしょう。
しかし引き続き日本領とされたことで、そのチャンスは生まれませんでした。幕末以降、日本政府が北海道と沖縄のことを「植民地」と認めたことは一度もありません。
アイヌは従前通り自治権や外交権を封じられたまま、圧倒的多数派である和人社会の中で差別にさいなまれ続けます。もちろん明治以降、アイヌや支援者らによる根強い抵抗運動があり、日本政府も救済措置を全くとらなかったわけではありませんが、先ほど申し上げた「謝罪・賠償・原状回復」といった根本的なアクションは、現在に至るまでひとつもありません。ポツダム宣言受諾から70年以上経ちましたけれど、アイヌにとって、日本は相変わらず植民地主義国家と映っているのではないでしょうか。
こうした状況下では、「アイヌ独自の文化や信仰を衰退させるな」だなんて、無理な注文というものです。
UNESCOの「Red Book of Endangered Languages」2010年版は、アイヌ語を「極めて深刻」と判定していますが、それは明らかに、19世紀以降現在にいたるまで続く日本政府の植民地主義と同化政策、多数派の支配者層たる和人社会が招いた結果なのです。
言葉が失われれば文化もなかなか生き延びられません。本日のテーマであるアイヌプリ(アイヌの流儀)の葬送儀礼も、現在までにすっかり廃れてしまっていました。
アイヌ墓地発掘・遺骨収集事件
多数派の和人たちが先住アイヌ民族を支配するという上下構造の中で起きた象徴的な事件が、大学研究者によるアイヌ墓地発掘・遺骨収集事件です。1880年代から1970年代にかけて、北海道大学を筆頭に解剖学者・人類学者たちが各地のアイヌ墓地を掘り返し、土葬の人骨を集めまくったのです。その数は、これまで判明しているだけで1600体あまりプラス515箱分。このほかに副葬品といって、亡骸と一緒にお墓に収められていた刀剣やアクセサリー類も大量に持ち出されたようです。
19世紀から20世紀にかけては、欧米諸国で形質人類学と呼ばれる分野が脚光を浴びていたんですね。頭蓋骨にノギスを当ててイッコずつ測定値を書き出し、統計処理でグループ分けする、といったことです。日本のエリート研究者たちは、自分の国家が新しく植民地化した北海道の原住民、すなわちアイヌに目を付けます。どうしたらアイヌの頭蓋骨を集められるかと考えて、手っ取り早く墓暴きに突き進んだんでしょう。掘った中には埋葬後数年しか経っていない遺体もあったそうです。
ふつうの人は、だれかの墓を暴こうなんて考えもしません。それは今も昔も同じでしょう。しかし当時の科学者たちはやった。彼らやそれを許容した和人社会がアイヌをどう見ていたかがよく分かる仕業だと思います。そのことを非常に象徴しているように思えるのが、こちらの写真です。
蛇足ながら、形質人類学は、世界中の多様なホモ・サピエンスを細分化しようという学問ですが、すぐに、どの人種が優れていてどの人種が劣っているのかを論じる優生学に結びついて、たとえばナチス政権下のドイツにおいて、ユダヤやロマや障害者大量虐殺(ホロコースト)の「科学的根拠」になりました。きょうの会場には研究者や学生のみなさんも大勢お越しかと思いますが、科学を志す者にとって決して忘れてはならない教訓です。
遺骨返還とアイヌ儀礼復活
さて、昭和期の解剖学者たちがアイヌのお墓から集めまくった大量の人骨は今どこにあるのでしょうか。おぞましい記憶だけに、事実上ひた隠しにされてきたのですが、最近になってようやく文部科学省が調査結果を公表し、状況が分かってきました。
最も多いのが北海道大学で、約1000体プラス500箱の遺骨が、医学部裏手の「アイヌ納骨堂」という建物に今も保管されています。
小川隆吉さん、城野口ユリさんというお二人の高齢のアイヌが、この北海道大学を相手取って「持ち去った先祖の遺骨を返して欲しい」と裁判を起こしたのは、2012年秋でした。法廷闘争の中身をお話し始めると本が一冊書けるほどなのではしょりますが──実際に単行本を作っていますのでぜひお求めください──提訴から4年経った今年3月、和解が成立して、11人プラス一箱に収められた遺骨が、元の墓地に戻されることになりました。実に85年ぶりの帰還です。
その戻ってくる先が、浦河町杵臼の墓地でした。地元に受け入れ団体が組織され、「コタンの会」と名付けられました。85年ぶりに帰ってくる遺骨をお迎えし、再び墓地に埋葬するに当たって、「コタンの会」はアイヌプリの葬送儀礼を復活させることを決めました。その中心を担ったのが葛野次雄さんです。
長らくお待たせしました。ご登壇いただきましょう。葛野次雄さん、葛野大喜さんです。
(以下略)
参考文献
榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館、2008年
上村英明『新・先住民族の「近代史」 植民地主義と新自由主義の起源を問う』法律文化社、2015年
植木哲也『学問の暴力 アイヌ墓地はなぜあばかれたか』春風社、2008年
北大開示文書研究会編『アイヌの遺骨はコタンの土へ 北大に対する遺骨返還請求と先住権』緑風出版、2016年
平田剛士・木村聡「北海道大学返還遺骨の再埋葬儀式 アイヌコタンの再生」『週刊金曜日』2016年8月26日号、2016年
参考サイト
北大開示文書研究会 http://hmjk.world.coocan.jp
コタンの会 http://kotankai.jimdo.com
2017年1月14日にウェブに掲載しました。(C) 2017 Hirata Tsuyoshi, All rights reserved.